【リレーコラム】新型コロナウイルスと私たちの生活 by 荘子it & TaiTan(Dos Monos)|僕はさなぎの中の液体になりたい
新型コロナウイルスに置ける情勢下、人々の生活が目まぐるしく変化している現在。クラブやライブハウスのみならず、アーティストを含め音楽シーン全体が様々な影響を受けているのは明白な事実である。
この企画はアーティストに「今どのような生活を送っているのか?」をテーマにコラムを執筆してもらう全4回の短期連載である。第1回目は、国内外音楽フェスへの出演や、イギリスのロックバンドblack midiのRemixを手掛けたことでも話題のDosMonosから、荘子itとTaiTanが登場。
文:荘子it(Dos Monos)
僕はさなぎの中の液体になりたい。
作品を発表し、人前でライブパフォーマンスをする者は、立派な羽で飛ぶ様を見せつける蝶のようなものであり、その対価として、時に甘い蜜を吸ったりする。
だが、蝶の姿は余所行きの現し身に過ぎない。
蝶の成体の大部分を占める、単に飛ぶためのものとしては過剰に美し過ぎると言ってよい羽は、ホログラムのようなものだ。
羽を除いた大部分の棒状の部分は、芋虫の頃と大差ない。
葉っぱ食ってた幼虫から、甘い蜜を吸う成虫になったといっても、学食の60円のコロッケを売り切れる前にダッシュで買いに行ってうまいうまい食っていた頃から、4万円のフレンチを人に奢るようになったくらいの違いでしかない。
家に帰りホログラムの羽をたためば、布団にくるまり這いつくばり、芋虫の如きものだが、芋虫という比喩より、蝶になって舞う自分を夢に見る人間と言えば、より現実に即しているだろうか。(あるいは、さなぎのさらに外側の、繭の糸を切り売りするために、温室で家畜化される蚕の比喩も当たっているかもしれないが、そちらの可能性に関してはここでは深入りしない。)
人前で見事に喋ったりパフォーマンスをする時を夢見る芋虫だか人間だかの僕は、温室でひっそりと想像力の羽を磨き、タイミングがくれば羽ばたき、喝采を浴び、再び帰る...
荘子の胡蝶の夢の話はこの意味で理解されたい。あれは、羽ばたく蝶に想像的同一化を試みては、断念を繰り返す、その往還を描いた説話なのだ。
それが決して本当の最終形態とは呼べないような姿を晒し続けるうちに、蝶ではなく、芋虫が羽をつけて飛んでいることに、人は気付くだろう。まだ完全変態を遂げていないのだから。
海外のポルノサイトで日本のエロアニメは"Hentai"とカテゴライズされているが、アニメに表象される性的倒錯が、人間の主体化のプロセスとほとんど無関係な表層の戯れであることに似て、僕らの変態は不完全である。
完全変態の昆虫が、幼虫から成虫になる過程でさなぎを経る時、一部の器官を残して、ほとんど液体化しているというのは有名な話だが、その変態の全貌は、人間の性的倒錯の構造が、精神分析や社会学、生物学etcの理論で完全には説明し切れないのと同様、未だ解明されていない。
僕はそんなさなぎの中の液体のような原液になりたい。
消費されやすく、メディアのりもよい、いくらか面白みもあり、その対価として甘い蜜をもらえるような、かりそめの成体/変体のホログラムを夢見る/見せる、安全な自室で布団にくるまった芋虫のような僕やあなたが、その場しのぎで延命することを止め、外敵から無防備なさなぎの段階に入り、完全な変態を遂げることができればいいと思う。それは本当に長い時間を要するが、縮小再生産ではない全く新しいものは原液からしか生まれない。
だが所詮、僕はさなぎの中の液体に戻った自分を夢見る、既に成長の止まった成虫に過ぎないのだろうか。いやいや、そもそも僕ら人間は完全変態ではないし、昆虫でもないのだけど。
荘子は知魚楽の話を通して、僕らは魚になれないが、魚の楽しみを知ることができるのだと説いた。僕はそのことを最大限ポジティブに捉えたい。
今朝の朝食は、身体を作り替えるために始めた自作スムージー。種ごと砕かれ、クリーミーな液体となっていくアボカドに想像的同一化を図る僕は、いくらアボカドの液体を飲んでもアボカドにはなれないという、美人の生き血を飲んでも美人にはなれないことに似た断念を経て、新たな自分になるだろうか。長い引き篭り生活の中、僕は液体化する手前でゲル状になってきたところだ。
文:TaiTan(Dos Monos)
月並みだが、メシばかり作っている。
毎日3食、せっせと。
とりわけ、挽き肉料理の沼は深い。
かつてジェーン・スー氏が「小麦粉は最強のメディアだ」と喝破したけれど、ぼくはその別流派として「挽き肉=最強メディア説」を提唱したい。
例えばキーマカレーに、坦々麺に、ボロネーゼに、ガパオライスに、肉豆腐 etc.
古今東西、ありとあらゆる料理に潜り込み、それぞれのポテンシャルを最大限引き出す挽き肉。
これほど有能な媒介肉がほかにあるだろうか。
同じ肉でも、分厚さを競い合うステーキや、ランク付けの高みを目指すばかりの霜降り肉にはできない芸当と思う。
くわえて、その高い能力をもちながらも、椀や皿のうえでは決して主役面しない、影の支配者感。これがまた、料理ビギナーのぼくを惹きつけてやまない。まるでメディア王マードック。自分はあくまでも材料であり媒介。その持ち場を絶対にはみ出さない、肉のくせに控えめという奇跡。そこがいい。
と、こんな具体に板場で挽き肉に夢中になる日々である。
巣篭もり期間に、研究しがいのあるものに出会えたのは幸運だった。年始に仲間が集まれる場所として借りた一軒家にはもう誰も来ないけれど、不思議と孤独ではない。
挽き肉を手ごねするとき、たしかにぼくは何者かと呼応している。加圧加減や掌の温度によって毎秒変化する肉との交流を通して、ぼくはぼく自身の思考や生活態度のコリも手揉みしているのだろう。力作業のわりに、身体がいつもすっきりする理由はそこにある。
媒介肉は、ぼくと新しいぼくともを繋ぐ。つくづく有能だ!
ただ、まあとはいっても仲間には早く会いたい。混乱が落ち着いた頃には、大勢を呼んで、消毒液持参の手ごねレイブでもできたらいいな。
関係ないけど写真は、中学の同級生でもある荘子itくんとMONJOEくんとzoomをしたときの様子。盛り上がらなさすぎて、8割無言だった。
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