【Report】ダンスホール・レゲエのアートワークを刷新したLimoniousはどんな人物だったのか。作品集発売記念イベントで語られたジャマイカの奇才の真実

MUSIC  2016.10.19  FNMNL編集部

取材 : 高倉宏司

Wilfred Limoniousは1999年に他界し、生前は世界的な注目を浴びる事はなかったジャマイカ人アーティストだ。彼が残した作品は、今日までのレゲエ、特にダンスホール•レゲエのアートワークやフライヤーのデザインに計り知れない影響を与えている。例を挙げるならば、Major Lazerのアーティスト写真で使われているイラストはLimonious作品の摸倣だといえるだろう。

 

その奇才Limoniousの初めてとなる作品集『In Fine Style』が発売された。出版元のOne Love Booksはロンドン在住でダンスホールDJでもあるAl Fingersが主宰しており、これまでも『Clarks In Jamaica』や『Sound System Culture 』等ジャマイカン•カルチャーに焦点を当てた書籍を出版してきた。今回の作品集『In Fine Style』の発売にあたっては、ロンドンをはじめとしたUKの主要都市だけではなく、NYやトロントいった北米地域でも発売記念イベントが催され、VogueやDazed & Confusedのwebで特集される等、レゲエ界を超えて注目を浴びている。

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作品集『In Fine Style』の書影

ロンドンで行われた発売記念イベントのトークではAl FIngersをホストに、Black SolidarityやShe Get Up and Skankレーベルのオーナーであり、Limoniousにアートワークを多数発注していたOssie Thomasと、Limoniousらとスタジオをシェアしていた同時代のイラストレーターであるFowly(Mad Houseレーベルのロゴをデザインした人物といえばダンスホール好きには分かりやすいかもしれない)というLimoniousに縁がある2人がゲストで登場。3者が特異な天才の生い立ちや作品、そしてあまり知られていない人物像などのエピソードを語る興味深いトークとなった。以下に抜粋したい。

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Rough Trade Eastで開催された発売記念イベントでのトーク

Al Fingers – まずは生い立ちから。1949年にジャマイカはアルバート•タウンで生まれたLimoniousは小さい頃から絵を描く事に夢中だった。少年期から描くスピードが早く、彼の生家は坂の上にあったのだが、来客がある際は、坂を上る客人の顔を窓からみて似顔絵を描きはじめ、客人が家の中へ入った時に、すでに仕上がっている似顔絵を客人へプレゼントし驚かせたというエピソードがある。20歳の時にキングストンに移住しキングストン•アートスクールに入学した後、1970年に現地の新聞Star誌のRough With Usという紙面で掲載されたマンガが、初めて世に出たLimoniousの作品である。

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Limonious初期のマンガ作品

Al Fingers – 80年代初頭に音楽業界で働き始めたLimoniousは、後に約300枚のアルバムを手掛ける事になるが、初のアルバムアートワークはSonic Soundsレーベルから発売されたJah ThomasのLP『Shoulder Move』だ。初期の作品の特徴としてこのアルバムのように表面が写真と手書きフォント、裏面にイラストが入る形となっていた。*後期にはイラストが表裏両面に入る形が増える。

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Al Fingers – Sonic SoundsやBlack Solidarityといったレーベルからアルバム•カバーを依頼されたLimoniousは、業界内で話題になるが誰がLimoniousかという事実は、多くの人に知られる事がなかった。Sonic Soundsを主宰していたNeville Leeはお抱えのアーティストである彼が誰であるかを隠した為、他のプロデューサーはNeville Leeを通してでしか、彼に仕事を依頼する事ができなかったのだ。Limoniousは多くのジャマイカ人と違い、寡黙で大人しい性格で、彼が描いた明るく、鮮やかで、ヴァイブスが高いアートワークとは正反対の人間だったというのも興味深い。

Ossie Thomas - まずアルバム•LPレコードのアートワークの目的は人々の注目を引いて興味をもってもらう為にある。Limonious 以前のレゲエアルバムは、アメリカのソウルやファンクのジャケットに似せた写真だけの作品が多かった。彼の登場がジャマイカのアルバム•アートワークにアイデンティティを与えたと言えると思う。

Limoniousの存在はトップ•シークレットであり、数人の関係者だけが存在が知っていた。仕事がとにかく早く、夕方に発注したデザインは次の日の朝10時には仕上がっていたし、朝に頼んだ仕事 は早く終わらせて、貰ったギャラで夕方には飲みに行っていたよ。

Fowly - Limoniousと同時代に同じスタジオで働けた事は貴重な体験だったよ。自分たちは小さいスタジオの中でテーブルをシェアしていた。彼からデザインについて教えてもらった事はないんだけど、自分のほうが若かった事もあって多くの影響を受けた。当時ジャマイカの音楽業界でデザインを手掛けていたのは彼やBagga、自分とあと数人しかいないんだけど、最も多作だったのがLimoniousだったね。僕らのスタジオはソニック•サウンズのスタジオとプレス工場の横にあるビルの一室にあって、隣のスタジオで録音された曲のデザインは僕達が1日でしあげて、次の日にはもうプレス工場に持って行けた。

Fowly -当時ジャマイカにはGeminiっていうサウンドシステムとレーベルがあって、同じ人物が運営しているGeminiナイトクラブもGeminiジャークチキン店もあった。そしてGeminiストリップクラブもね。LimoniousはそのGeminiっていうゴーゴー•クラブ(ストリップクラブのジャマイカでの通称)に毎晩通っていたんだ。先に言ったように彼はシャイで寡黙な男だったけど、夜の顔は別だった。GeminiにはLimonious専用のテーブルもあって、ゴーゴー•クラブ内の壁にある大きな鏡やステージ裏に、Limoniousが絵を描いた事もあった。最近Geminiには行ってないから(笑)今はあるかわからないけど。ジャマイカに行く事があれば見に行ってほしい。彼は女性の体もよく描いていたからGeminiのダンサーからインスピレーションを受けていたんじゃないかな。

Ossie Thomas - 当時のジャマイカは、というか今でもだけど金銭的にだらしない奴が多くて、他のプロデューサーや自分もLimoniousへのギャラをしばらく払ってない事がしばしばあった。でも皆Geminiに行くからそこでどうしても彼に会ってしまうんだよね。そして隣のテーブルから睨まれたりするんだ(笑)だからみんなギャラ代わりに酒をおごって機嫌をとったりしてたんだ。

ジャマイカという特異なカリブ海の島国で活躍したLimoniousはその作品だけでなく人物も含め欧米等先進国のアーティストとは違い、良い意味であか抜けていない、心暖まる雰囲気がある。作品集In Fine Style: The Dancehall Art of Wilfred Limoniousは現在日本でもDub Store等で発売中だ。

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