【インタビュー】村山修一 (2TIGHT MUSIC) | ギャングスタラップをDIYで広めること
JR横浜線の町田駅の改札を出て、右に行くと商業施設や飲食店がひしめく繁華街、左に向かうとラブホテルや過去には発砲事件などもあった雑居ビルが立ち並ぶエリアとなっている。ラブホテル街の方にある少し怪しげな雑居ビルに2TIGHT MUSICは本店を構えている。
元々ダンスからヒップホップにハマり、特にギャングスタラップにのめり込んでいった村山修一がオーナーを務めている2TIGHT MUSICは、世界でも指折りのギャングスタラップ専門のショップだ。村山は頻繁に渡米し、現地のアーティストなどと地道に信頼関係を作り上げ、流通には乗らないようなインディペンデントのギャングスタラップのCDやアーティストグッズなどを販売している。TSUTAYA SHIBUYAで、特に関係の深いDJ ScrewオンリーのPOP UPも開催した2TIGHT MUSICは、どのようにして出来上がっていったのか。そこには村山のアーティストに対する熱い気持ちと行動力があった。
取材・構成 : 和田哲郎
撮影 : 川谷光平
取材協力 : KEMMY3000 (DMB PRODUCTION)
- まず、ヒップホップにハマったのはいつ頃だったんですか?
村山 - ヒップホップにハマったのが1995年で、15歳のときですかね。友達の兄貴がダンススクールを地元でやってて、そういうのがあるんだと思って行ってみようと思ったんですよね。それで喰らって、「ヒップホップでしょ」ってなったんですよね。
- その時はどういうアーティストを聴いていたんですか?
村山 - 最初はMariah Careyとか、R&Bが耳に入ってくることが多かったですね。
- 村山さんの地元の横浜と言えばいわゆるウェッサイの中心地です。
村山 - 横浜にあるビブレでダンサーとかが集まっていたので、ちょいちょい行ってたんですけど、ギャングスタラップに気づいたのは、アメリカにMurder Dogって雑誌があって、売ってるお店が横浜にあったんです。そのお店がCDを出していて、CDを欲しいって問い合わせたら「やばい雑誌があるから、それも買った方がいい」ってお店の人に言われたんですよね。むしろ「CDはあげるから」って、いきなり言われて。それでMurder Dogを送ってきてくれて。それまではSOURCEとかは部屋に置いていたんですけど。Murder Dogと一緒についてきたCDを聴いたら、これまで聴いてきたヒップホップよりBPMも遅いし暗い感じで、最初は「なんだこれ、気持ち悪いな」って思ったんですよ。でも聴いていくうちにかっこいいなって思い始めて、そうやってギャングスタラップに近づいていった感じです。そういえばついてきたCDの中にTHCってグループがあって、それは今もLAで活動しているDJ2Highさんのユニットだったんですよね。それまではNYとかLAとかなんも分からずに聴いていて、レコード屋でなんとなく買うって感じでしたね。
- 当時はもちろんも普及していないし、情報が整理されているわけじゃないですもんね。
村山 - ダンスをやっていると毎日同じ曲で踊ってると飽きてくるんですよね。友達の兄貴にターンテーブルをもらったんで、自分の持っているレコードでミックスを作ってダンスの練習に持っていくようになったんですよね。友達にも「録ったんだけど聴く?」みたいに出し惜しみしたりして(笑)。 次第にダンスだけじゃなくて、そのミックスの選曲でも食らわせたくなってきて、それでひたすらレコードを掘るのにのめり込んでいった。Murder Dogに出会ったタイミングはIce Cubeもアルバムを出した時で、Bone Thugs-N-Harmonyのレコードも日本でも一瞬で売り切れるみたいな感じだったんですよね。
村山 - それでGな感じでミックスを作りだして、最初はダンスのビデオとかで観てたアメリカに行きたいなと思い始めた。日本でもBUDDHA BRANDの"人間発電所"がセンター街の普通のお店でも掛かっていて、日本語ラップも聴きつつ、ヒップホップのルーツを観たいって思ったんですよね。その頃はダンスにハマりすぎて、練習してたら終電逃すようになっちゃって、高校に行けなくなっちゃったんですよ。どこかにダンサー集まってるらしいよって聞いたら、自分の技をかましに行くんですよね。自分はかましに行く癖があって(笑)。そのために地元で修行して、お互い技を見せ合って最終的には仲良くなる感じで、ショーに出るとかじゃなくて、バトルしに神戸とかも行ってましたね。それで高校を中退して、そのまま通信制の高校に入り直して、ほとんど学校行かなくてよかったんで、よりダンスにハマって、17歳の時に初めてアメリカに行ったんですよね。死ぬ覚悟で行きましたね、マジで。怖いけど、怖いという気持ちはださないようにしようって。
- 実際行ってみていかがでしたか?
村山 - 本当に行ってよかったなって今は思う。自分の知らない世界があったんですよね。フィーリングを感じることができたというか、雑誌で読めるのは誰かが切り取った情報で、行ってみてわかる感覚は伝わらないんですよね。そういうのを思いっきり感じられて、クラブもいくつか行く機会があって、そこでもダンスをかましに行きました。絶対負けるのはわかってるんですけどね。ダンサーのレベルは全然違って、ビデオに出ているわけではない無名のダンサーなのに、めちゃくちゃヤバかったです。
- そこからギャングスタラップに傾倒していくきっかけはあったんですか?
村山 - 2回目にアメリカに行った時に、LAでダンスの大会みたいなのに行ったんです。そこに雰囲気が違う、どうやらギャングのダンサーらしいって奴らがいて。すごいダルそうだし、ダンサーはBPM速い曲で踊るのに遅い曲で踊っていて。なんだこれはと思ったんですけど、遅い曲に合わせてかっこいい動きをしていて、それに凄い衝撃を受けて。こういう感じで行こうと思ってて、完全に振り切ったのは、ダンスで怪我をしまくって「これ、一生できるのかな」と思い始めて、DJなら疲れる度合いが違うから大丈夫だろうと思ったんです。その時はIce CubeからN.W.A.を聴くようになって、Coolioの"Gangsta's Paradise"も最初は気持ち悪いと思ってたんですけど、徐々にリラックスしながら聴く感じではまっていきましたね。
- その時はDJをやっていたんですか?
村山 - DJなんていえるもんじゃなかったですね。たまにオファーがあっても同じ曲を2回かけるみたいな感じ。最後もう一回俺の秘蔵の曲聴いておきたいでしょって(笑)。やりたいとは思ってたんですけど、お客さんに聴かせるみたいな責任感は一切なかったですね。下北沢のBASEMENTBARだったり、新宿にビル丸ごとクラブってところがあって、そういうところでたまにやってました。でもギャングスタラップ専門のパーティーとかもなかったし、ひたすらレコードを集めるだけでしたね。
- 自分がレコードを集めていることが、仕事につながっていくみたいな意識はあったんですか?
村山 - 全くなかったですね。別で仕事をやっていたので、何も考えずに入ってくるお金を全額レコードに使うくらいな感じで、それでも足りなくて給料も前借りしてましたね。日本に入ってくるヒップホップのレコードは全部集めたいってなってて。1枚持っているレコードでも、また見つけたら他の奴が買えなくなるでしょって買ったりしてましたね。自分の見える世界の中では買い占めてやろうって。嫌な奴(笑)。2〜3枚買ったのはSouth Central Cartelの“Gangsta Love”とか、あとはFoesumのレコードも誰も持っていないはずなのに、ネットオークションに出てたから買う、みたいな。そういう生活を何年か続けて、またアメリカに今の視点で行きたくなっちゃったんですよね。どうせ日本でレコードを買ってるんだから、そのお金で行けるなと思って。仕事を辞めてすぐ行ったんです。その時はレコード屋には1、2軒しか行けなかったんですが、さっき言ったFoesumとかは現地ではめちゃくちゃ有名なアーティストだと思ってたんですよ。
店員から「何探してるの?」って言われたら、Foesumって言っても伝わらないんですよね。ギャングスタラップもG-Rapって略して呼んでたんで、「G-Rapなんてない」って言われるし、全然伝わらなかったんですよね。でもなんとか100枚くらいは買って帰ってきたけど、仕事を辞めちゃっていたし、もらった給料はアメリカで全部使ってるし、どうしようかなと思い始めて。当時ネットオークションが出始めの頃で、手放したくない物とかも含めて出品するようになったんです。そしたら奇跡的に凄い売れて、流れができるようになった。
- オークションを始めたことで、自分がやっていることが仕事になるのに気付いたんですね。
村山 - 一番最初はそうでしたね。アメリカに行って、行くたびに違うレコード屋を探して帰ってきてオークションで売るというサイクルができて、そうしてると「出品している以外にもないんですか?」って連絡が来るようになったり、クラブで知り合った顧客みたいな人が増えてきたんですよ。そういう人には車にレコードを積んで、移動販売みたいにどこにでも行って売ってましたね。
- 当時買い付けに行ったのはLA?
村山 - 最初数年はLAでしたね。LA行った時に、レコードを持ってたらいきなり「いい目をしてる」って話しかけられて、「付いてこい」って言われたんですよね。それで行ったら巨大なレコード倉庫で、めちゃくちゃテンション上がってもう朝までずっと掘ってたんですよ。それで毎回そこで掘るっていうルーティンができたんですけど、同時にちょっと大人になったので、ここを掘り尽くしたらどうしようって思い始めた。少し先のことを考えるようになったんです。この経験値ではまだ店はできないと思ってたから、LAと一緒に他の街も行こうってなって近郊のベイエリアとかにも出かけるようになりましたね。その後はLAから4~5時間圏内のアリゾナとかにも行くようになって。
- レコード屋があると分かって行ってたんですか?
村山 - ベイエリアに行った時はレコード屋も分かってましたね。後はeBayでも買っていたので、大量に出品しているベイエリアのやつに連絡して待ち合わせたりして。GPSもなかったし大丈夫かなと思ったんですけど、サンフランシスコの地図を片手に6時間くらいかけて行ったら、翌日会えてレコード屋に連れて行ってくれたんですよね。やっぱりベイエリアにはLAとは全然違うローカルのアーティストの作品があった。自主制作盤が多いから、全国流通とかはしないんですよ。そういうことにもちょっとずつ気付いていって。その頃LAのレコード屋で待ち合わせしてたんですけど5時間くらい来なかった人がいて。今思うと自分の英語がダメだったんですけど、ひたすら待っていたらCDを持って、レコード屋に入っていった黒人がいたんですよね。アーティストなのかなと思って話しかけて、持っていたCDを買って連絡先を交換したんですよね。
そしたら数ヶ月後に「お前は何をやってるんだ?」って、そのクリフって人から連絡がきたんですよね。それで自分のことを説明して「協力してくれないか?」って聞いたら、「報酬を支払うならいいよ」って言われたんです。でも最初は騙された。「Assassinのレコードを欲しいか?」って言われて「500枚くらい欲しい」って言って買ってぶちかまそうと思ったら、他のレコード屋にも同じタイミングで流通したんですよね。そのレコードの在庫はまだありますね(笑)。もうこんなやつと取引しないと思ったんですけど、なぜか結構連絡をくれて、もう一回信じてみようと思って、「レコード屋を探してくれ」って頼んだら、全然知らないレコード屋とかローカルのブラックコミュニティで成り立ってるようなお店をすごい教えてくれたんですよね。それでこれまでよりも色々手に入るようになったんです。クリフはA Lighter Shade of Brownのマネージャーで、作品のクレジットにも記載されてます。たまたま声をかけたら音楽業界の人で、常に綱渡りみたいな感じだったんですけど、運がよかった。
- 危険なことはなかったんですか?
村山 - 今は感覚が麻痺しているのでアレなんですけど、当時携帯を落として自分の番号に公衆電話からかけたら誰かが出て、「LAのスキッドロウ(※LAの中でも特に治安の悪い地域として有名)に取りに来い、数百ドル支払え」って言われて夜に行ったことがありましたね。そういうことが初めてだったので覚悟して行ったんですけど支払ったら大丈夫だった。お店じゃなくて誰かの家にレコードを掘るようになってからはショットガンがあって、「いつでも撃てるぞ」って言われたりするのは、最近もあります。銃社会を実感しますよね。
- そのようなサイクルができてきて、ビジネス的な感覚も掴めてきた?
村山 - いや、それは今も掴めてないっぽいですね(笑)。でも物を仕入れて売って、さらに仕入れ先が枯渇しないようにしようって意識は強くなっていったかもしれないですね。レコード屋で働いたこともなかったので、何をどうすればいいかわからなかったんですよね。
- 仕入れ値とかはどうやって決まってたんですか?
村山 - 言い値のことも多いし、人によって違って、一定の金額とかはなかったです。「売りたくない」って言われることもあったので、「倍払う」、「ダメだ」、「じゃあ100ドル」ってオークションが始まる時もありました。なのでお互いが納得する価格が仕入れ値でした。レコード屋も個人商店が多いので、そういう形で決まることが多かったですね。
- お店にしてみようと思ったのは?
村山 - 26歳くらいの時に、そろそろ自分が何をやっているかを言えないとヤバいと思い始めたんですよね。「車に積んでレコード売ったりオークションで出品してる」って言っても、「それで何?」って感じだったんで、痛くなってきて。じゃあお店を出して会社にしちゃおうと思って、そしたら周りの反応も変わるしめんどくさないだろうって。それで2007年にウェブショップを立ち上げたんですよね。
- オープンしていかがでしたか?
村山 - びっくりだったのがオープンしてすぐに凄い数のオーダーがきて。当時の感覚ですけど、インターネットすげえってなって。オープン前は知り合いに「明日からお店を始める」って連絡したら、当時mixiが流行ってたんですけど、宣伝してくれて、沖縄の人からもオーダーが来たりしてました。うまくいく確信はなかったですね。常に確信がない中で新しいことをやってしまうんですよね。最初から、なんとかなるかなという感じで売れてはいたんですけど、その分仕入れの行動範囲も一気に拡大しちゃったので、バランス悪いけどギリギリ飛行はできるって感じでしたね。
- ウェブショップをオープンしてから南部の方に行き始めた?
村山 - そうですね。南部の方は本当に田舎なんですよね。サウナにいるみたいな気候だし、もちろんラジオでかかる音楽も違うし。さっき話したクリフが、「ルイジアナのこのレコード屋に行った方がいい。ここはスーパーブラックストアだ」って教えてくれたんですよね。ニューオーリンズから5時間くらい運転する「ガーランドスーパーサウンド」ってお店。夜11時くらいに着いたんですけど、日本からバイヤーが来るってことでオーナーもちょっといい椅子に座って出迎えてくれて。街の人たちも珍しい経験だからってことで見に来てるんですよね。「店の中全部見ていい」って言ってくれて。やっぱり初見でいきなり行ってもハードルが高いのでクリフが話をつけてくれてたんですよね。店に貼ってあるポスターのアーティストとかも教えてもらったりして、広げて行きましたね。
- ウェブから実店舗への流れは?
村山 - それもウェブショップを作った時と一緒で、世間では店舗を持つのが一人前なんだなって分かったんです。あとはウェブ上の常連さんもいるんですけど、その人がどういう人かもわからないし、そういう人たちと会えて話せる場所は店舗なんだろうなって思って興味を持ち始めましたね。町田にしたのはダンスをやっていた頃から、隣の相模大野とかでよく踊っていたので乗り換えでよく使っていたんし、それに渋谷とかに比べると町田が寝起きのまま行ける感じがしたんでいいなって思ったんですよね。この時点でビジネス志向とかじゃないんですが(笑)。この場所は治安も悪かったんですけど、それも店の雰囲気的にはいいかなと思って。オープン当初はこのビルの上に本職の人が事務所を構えてて大変でしたね。
- ケミーさんはどうやって辿り着いたんですか?
ケミー - 最初は普通に2Pacとかを聴いていたんですけど、どんどん掘り始めちゃって、それで最初は2TIGHTのウェブショップにたどり着いたんですよね。店舗ができるというのでギターをかついでオープンして1週間以内くらいに行ってみたんです。
村山 - すごい覚えていて、ギターを担いだ人が来たから来る店間違えたんだろうなと思ったんですよね。しかもたくさん買って行ったんで大丈夫かなと思ったんですけど、そしたらまた3日後くらいに来たので、「あ、好きなんだ」って。ケミーさんは自分の知らないバンドのこととかを教えてくれるからすごい面白くて。DIYとかもケミー氏に教えてもらって。
- でも村山さんがやっていることも完全にDIYですよね。
村山 - なんか心当たりがある気がするって思って。自分は同じような動きをしていたかもしれないけど、DIYをやってるというのは意識していなかったので。
ケミー - そっちの方がやばいですよね(笑)。2TIGHTは置いているアイテムに全て理由があって、どんなことでも答えてくれる。ネットで調べても出てこないことでも村山さんは分かってるし、話も面白いですからね。そこらへんが他のお店とは違うかなと。
- それは実店舗ができたからこそですよね。
村山 - SNSとかblogでそういう情報を発信しようとも思ったんですけど、自分は文字で伝えられないものをアメリカで感じてきているので、自分の書いた文章が変に解釈されたり勘違いされるのも嫌だなと思ったり、いろいろ考えたらそういう発信はあまりやらなかったですね。でもお店に自分たちが取り扱っているものが好きで来てくれた人には、色々知ってもらいたいなと思って話はしますね。
- 元々今スタジオになっているこちらが、店舗だったということなんですが、移動したのはなんでですか?
村山 - 隣に脱法ハーブ屋が入りそうになったことがあって。ハーブ屋をやるお兄ちゃんが挨拶に来たんだけど、なんかきつい感じで。脱法ハーブ屋と同じ階で関係あると思われるのも嫌だなと思って、不動産屋に電話したら検討中と言われたんですよ。なので、「そんな店に貸すなら俺は出ていくし、それなら俺に貸して」って言って借りたんですよ。何かやりたくて借りたわけじゃなかったので、数年はただ物置になっていて、しばらく経って一緒に動いていたTriggerが「もっと音楽をやりたい」と言うので、こっちは知り合いに工事と防音設備を作ってもらってスタジオにしましたね。DIYと言われるけど、やっぱりこういうやり方しかできないんですよね。
- でもその気持ちがアメリカで会う相手にも伝わっていますよね。
村山 - 20〜30年前に作品を作って、それで活動を終わっちゃった人って当時の自分の作品には自信はあるんですけど、認められなかったって結果を感じてる人がいる。実際作品の在庫が残ってる人もいるし。そういう人には「自分は今あなたの作品が欲しくて日本から来たんだよ。オクラホマの名前を日本に広めているよ」って言ったりしますね。それでアーティストも自分も泣くみたいな。作品を作ったアーティストはずっとゲトーにいて、ネットが発達して出来上がったヨーロッパの悪ぶったゲトーカルチャーファンのコミュニティの間が直通していないんですよね。メルカリとかでコレクターから手に入れるとかじゃなくて、もっとゲトーにいるアーティストに還元をして欲しいんですよね。まだまだ足りないと思うから、会ったアーティストにはこういうやり方をすれば少しは潤うからって教えたりしてますね。
- その流れで聞きたいんですが、Travis ScottやA$AP Rockyなどのアーティストがスクリューを形式的に取り入れたりすることが搾取と批判されることもあります。そういうことについては村山さんはどう考えていますか?
村山 - A$APはわからないですけど、Travisはアルバムのキャンペーンをやっているときに、たまたま自分もScrew Shop (※ DJ Screwのミックステープだけを販売しているショップ)に行ったんですよ。でかいバルーンとかもあって、その写真を撮りにくる白人の兄ちゃんとかもいたんですけど、関係者の人たちがScrew Shopの人たちに熱心にコミュニケーションを取っていたので。それすら上辺かもしれないけど、ちゃんとリスペクトは見せていたかなと思いますね。Travisのイメージ的にScrew Shopでやるのが良いのかもしれないけど、白人の兄ちゃんとかが「やっぱりスクリューでしょ」って言うようにもなったので、どこまでいってもどっちにも取れるけど、すごい良いことなんじゃないかなと個人的には思いますね。
- 村山さんとScrew Shopの繋がりはどうやって生まれたんですか?
村山 - 最初は今と違う場所にあったんですけど、その時はスクリュー超ヤバイって感じじゃなくて「え、スクリューだけのお店があるの?」って半信半疑でしたね。たまたま最初に行ったのがScrewの命日の翌々日だったんですよね。ヒューストンの街に入ると、スクリューミュージックがそこら中の車から鳴っていて、そんな土地は他にないから、すごいなと思ったんですよね。「これがH-Townね」とか、急にH-Townって言い出すみたいに感化されて(笑)。お店に行く前に衝撃を受けたんで、お店に入って本当にScrewのミックスしかない意気込みに更に衝撃を受けて。それでこれを日本でも取り扱いたいって言ったんですけど、その時はあまり話は進まずに、少しずつ買っていくことにしたんですよね。ミックスだけで数百作あるので。それで徐々にお土産を持って行ったりしつつ、親交を深めて行った感じですね。
- 他に特に思い出深いアーティストと言うと誰になりますか?
ケミー - Battlecatはどうやって?
村山 - Battlecatは初めて会ったのがイングルウッドのモーテルでA Lighter Shade of Brownの作品にBattlecatがプロデュースしている曲があったので、クリフに聞いたら連絡は取れるってことだったので、連絡したら来てくれる事になって。それで会ったときにDJで日本に来て欲しいって頼んだら「できる」って返事だったのでそこから話が進みましたね。地震があって、予定より遅くなったんですけど、Battlecatの関連曲だけでDJしてくれて痺れましたね。本人もDJでアメリカツアーとかはなかったみたいで。彼みたいに人生をかけて音楽をやっている人と、自分たちみたいにカルチャーとして情報を整理している人は見てるところが違うみたいで、自分からしたらBattlecatのDJツアー面白いでしょって感じだったんですけど、アメリカの人からしたらBattlecatは曲を作る人って感じだったんですよね。面白い事をやってみようじゃなくて、普段やっていることを続けていくって方が強いんですよね。
ケミー - Battlecatが自分で初めて呼んだ海外のアーティストですか?
村山 - 自分のリスクで呼んだのはそうですね。これまで15〜6組くらいは呼んでますね。自分がアメリカに行ってみたものを100%伝えるのって難しいので、実際アーティストのパフォーマンスを見てもらうのもやり方かなと思って。あとは日本にこれだけ好きな人がいるんだよっていうのをアーティストサイドにも伝えたかった。帰国してからも孫とかに自慢して欲しいんですよね。呼ばないと日本で人気があるなんてことをアーティストは知らないし、人生の中でそれを知るか知らないままでいるかって価値で計れない差があると思うんですよね。
- やっぱり日本に呼びたいって言うとびっくりされるんですか?
村山 - 最初は詐欺だと思われますね。「俺が作品を出したのなんて25年前だぞ」みたいな。そう言う時は「また必ず来るから、もう少し話を訊いてくれ」って言ってまた行くようにしてますね。それを続けていくことでしか信頼は生まれない。それをやってきたので、色々立ち寄れる街も増えて最近は行くたびにアメリカ横断をしていますね。
- 車でですよね。どれくらいかかるんですか?
村山 - 距離で言うと大体11000kmくらいですかね。2019年は2ヶ月に1回くらい行って、6回横断しましたね。
- コロナの状況が終わって、呼びたいアーティストは誰がいますか?
村山 - たくさんいるんですよね。Z-Roが今一番話していますね。もう声がかっこいいし、ずっと続けているアーティストなので。Screwの命日とか誕生日には、気持ちのあるアーティストはScrew Shopに行ったりするんですけど、Z-Roはそういうタイミングで会うことが多い。
- 最近同じビル内で食べ物屋さんなどもオープンしたんですよね。その理由は?
村山 - SNSでも商品はアップせずにアメリカで食べた物とかをアップしてるんですよね。それに反応があったりするんで、実際に味わってもらいたいなと思ってEPICというお店を作って、自分が現地で食べたものをメニューにして出してます。ルイジアナの音楽にはルイジアナ料理だし、テキサスの音楽にはテキサスのバーベキューが合うので、ほしいCDをただゲットするだけじゃなくて、それ以外のものも興味を持って欲しいなと思ったんですよね。アメリカ文化の伝道師なんて言えないですけど、ただただ自分が良いなと思ったものを知って欲しいなと。音楽だけじゃなくて、そう言う形の提案をしているお店も知らなかったので、自分なりの形でやってますね。ビルの2Fには今はデリバリーとテイクアウトだけの飲食店EPICと、自分たちで着るものを自分たちで作れるように刺繍屋もありますね。
- 今後やってみたいことはありますか?
村山 - もっと表現したいとなると、どでかい倉庫みたいなところが必要になるので、そういう場所は興味ありますね。アメリカの田舎には黒人の生活に密着することで成り立っているお店も多いので、それをそのまま表現したいですね。外でBBQやったりとか、それがビジネスとして成り立つかはわからないですけど、そう言うという表現はしてみたいなと思いますね。
- ビジネスとしてと言うよりは自己表現としてやりたくなってしまうんですね。
村山 - ダメって言われるとやりたくなっちゃうんですよね。危ないよって言われると観たくなるみたいな感じで。誰かがまとめあげた情報はインターネットにはあると思うんですけど、感覚の部分ってインターネットで知ることができないものだと思っていて。そう言うのを少しでも感じられる場所にしたいですね。町田でやってよかったですね。気張らずに来れるので。
- 今ってメインストリームの音源はストリーミングで聴けるようになっていますよね。そう言う意味で仕入れや売上などの影響や変化などはありましたか?
村山 - iTunesやデータでのDJが始まった時が一番あったかもしれないですね。その当時は友達にも「そんな商売するの?」って言われたんですけど、そもそもその時は音楽自体が低迷期だったので、超良かった時期を知らないんですよね。最初から手に届く範囲のことをしっかりやるだけだったので。でもここ1~2年は海外のアーティストも帯付きのレコードを出したりとか、フィジカルな媒体への意識がまた増えてきていて、ちょっと良くなっているかもしれないですね。
- 現在SHIBUYA TSUTAYAで開催中のPOP UPについても教えてください
村山 - 最初ケミーさんから2 TIGHTのPOP UPをやって欲しいと言われて、一瞬色々なものを持って行こうかなと思ったんですけど、それはやめてScrew尽くしにしようって思ったんですよ。渋谷でScrew尽くしはヤバいなと思ったので、怒られるかもしれないけど「Screw Down」にしようってなりましたね。
- Zineも作ったんですよね。
村山 - ケミーさんがお店にZineを持ってきてくれたことがあって、そのころはZineについても知らなかったんですけど、いつか作ってみたいなと思ってたんです。今だなと思って、自分が見てきたScrew Shopで撮ってきたものなどをまとめましたね。それもScrew Shopのボスと喋ったときに、「俺は金はないけど、Screwのことを伝えるために続けるんだ」って泣きながら言われたことがあったんですよね。それで今回のPOP UPのときにただScrew Shopで仕入れたものだけを売っても申し訳ないなと思って、納品の前日にZineを作ったんです。「それが俺のメッセージだから」って熱い気持ちに応えたかったんですよね。ミックスも普段は別の仕事をしながらScrew Shopに通っているDJに作ってもらって。Screw Shopも店の一角がスタジオになってて、遺族に認められたDJが毎日ミックスを取りに来てるんですよね。その中の1人に送ってもらったものから選びました。
いつかScrew Shopを日本に呼びたいんですよね。日本にも伝わってるよってのを知って欲しいし、自分たちもそう言う気持ちを忘れないために実現したいです。あとは知り合ったG-Rapの重鎮の再発もやっていて、最近出したSouthern Merchandiseっていうテキサスのサンアントニオのグループは、自分たちの音楽が外で聴かれているなんてわかっていなかったので。それでオークションでは半年前くらいには15万円で取引が成立しているけど、本人たちにはなんの影響もしない。金額はすごいけど、「本人たちの活力になるべきだから、再発も広まった方がいいよ」とは、オリジナルを買った人にも言ってますね。価値=値段みたいなのは違うって。個人の気持ちしか詰まっていないすごい作品はあるので、知識の本棚を充実させるだけじゃなくて興味本位で楽しんでくれる人を増やしていきたいですね。イーストコーストとウェストコーストとか、インディーラップとギャングスタラップの違いなんて気にしなくていいから、良いものがどこにあるのかを探せばいいだけじゃないのって思いますね。
Info
2Tight Music presents
"Shibuya Screw Down"
at Tsutaya Shibuya 7F