寺田創一インタビュー!甘いハウスの季節

日本のハウスシーンの黎明期から自身のレーベルFar East Recordingを中心にリリースしていたパイオニアの1人、寺田創一。そんな彼の80年代後半〜90年代前半にかけてのハウストラックを中心に収録したコンピレーション、『Sounds from the Far East』がオランダのRush Hourからリリースされた。このリリースを記念して寺田本人からこれまであまり知られることがなかった、日本の初期ハウスシーンを巡る状況や自身の楽曲制作についてなどを聞いた。

取材 和田哲郎 写真 寺沢美遊

- まず今回Rush Hourからリリースされた、『Sounds from the Far East』はどのような経緯でリリースされるようになったのでしょうか?

寺田創一 - 最初は今回のアルバムのコンパイラーでもある、Huneeさん(注 Rush Hourからもリリースしているアムステルダムのプロデューサー)から再発を出さないかという話があって、こういう曲が候補に挙がっているというメールが来たので、他にもこんな曲があるよということで自分が持っている音源をHuneeさんに送って、Huneeが選曲とかを終わったあたりでRush Hourを紹介されました。

- いまこのタイミングで自分の80年代後半~90年代前半の楽曲がヨーロッパやもちろん日本でも再評価されているっていうのは、どういう気持ちですか?

寺田創一 - 物凄い不思議でどうしてなんだろうという気持ちもあるんですけど、2000年代後半に入ってから、ヨーロッパのハウスのDJでBrawther(注:現在イギリスのリーズを拠点とするDJ/プロデューサー 日本産のハウスフリークとしても知られている)が、彼のDJ Mixの最初の曲に自分の昔のリミックスやハウスのトラックを使ってくれるということがあって、そういうことがある度にBrawtherのMix音源を聴いたであろう人から「このレコードはありますか?」とかそういう問い合わせメールがちょっとずつ来るようになり、去年2014年からHuneeとか、ロンドンのレーベルでHistory has a tendency to repeat itself(Hhatri)というところからも再発の話がくるようになりました。Rush Hourの再発はアートワークとかも含めて無茶苦茶きれいに作ってもらって、アナログもCDもデジタルも全部やってくれているので非常にビックリして、出したあとにFacebookとかでリアクションがあるので二度ビックリという感じです。

 

- 逆に寺田さんは今の新しいハウスなどを聞いていますか?

寺田創一 - 最近はそんなに意識しては聞いていないんですよね、ただYoutubeにアップされたDJ Mixをたまに聞いたりはするんですけど。そういう中にもすごい面白い曲があるんだけど、それは何なんだろうって掘るような聞き方はせずに、あぁ楽しいなってくらいでしかなかったんです。

- それこそ90年くらいに生まれた若いDJやアーティストに寺田さんの今回のアルバムが聞かれてとても評価されているんですが、そういった時代感のギャップについてはいかがですか?

寺田創一 - ギャップというよりか凄く嬉しいし、もう90年代とかがリバイバルというか振り向くような時代になったということに、自分もかなり歳とってきたということを実感させられたりもします。もうね、本当にオッサンになったと思います、ハハハ(笑)

寺田創一

- 今日は当時80年代後半から90年代のことを中心にお伺いしたいのですが、まずハウスやヒップホップの2つに出会ったのはいつ頃で、どういう場所で出会ったのか教えてもらいますか?

寺田創一 - ハウスとかヒップホップに出会ったのは多分88年か89年頃だと思うんですけど、ハウスは村田大造さん(注 現在は渋谷Sound Museum VISION 、代官山AIRなどの運営をおこなっている)が西麻布のYellowを作る前にP.Picassoという小さいお店をやっていて、そこでハウスが聞けて、あとアナザーワールドっていう小さいお店も、P.Picassoの近くだったかな?六本木通りを挟んで反対側くらいだったと思うんですけど、そこでも聞けました。あとはシンガポールから来た、コニーさんという女性が主催の突発ゲリラ的に色んなところでやるパーティーがあって、そこのDJ達がハウスの新譜を沢山かけていました。そこがとても面白くて、最初中華料理屋の2階でやってたのが色々な所でやるようになって、そのコニーさんのパーティーにママチャリでよく遊びに行ったりしてました。

寺田創一

- 当時は寺田さんは大学生ですか?

寺田創一 - 当時はもう卒業していて、卒業する前年にバンドで契約をしていてバンド活動もあったんだけど、自分としてはハウスとかヒップホップの方に興味が無茶苦茶いっていました。ヒップホップの場合はクラブに行ったりというよりは、スチャダラパーとかが出ていたDJコンテストみたいなゴングショーというのがあって、そこにサンプラーとコンピュータを持ちこんだりとか、自主制作したレコードとかを持ってったりして参加してたんですけど、やっぱりDJとMCのパフォーマンスが主体だったからかなり変な奴だと思われてたはずです。

- 具体的にバンドよりハウスとかヒップホップに惹かれた理由はなんだったんですか?

寺田創一 - なんでなんだろう、やっぱり耳新しかった事と楽器じゃない物を使って音楽を作るっていうことがとても面白かった。DJはレコードを繋いだりとか、自分の場合はサンプラーに音楽そのものを取り込んで、それをループさせたりエディットして別の音楽を作るという事に非常に興味がありました。当時Cold CutとかBomb The Bassとかが出てきていて、ミュージシャンじゃないけどDJが作る音楽が自分にとってはめちゃくちゃ新鮮だったんですね。それまでだったらサンプラーの中には音階のあるもの、例えばピアノとかギターとか、もしくはドラムの音が単発で1つとか入ってたんだけど、ビートそのものを入れるとか、歌声を入れるとか、ある音楽を丸ごと入れて鍵盤で弾くと面白いとかそういうことに夢中になったんです。

 

- いまCold CutとBomb The Bassの話が出ましたけど、今も覚えている具体的な楽曲とかこの人はすごかったというアーティスト名を教えてもらっていいですか?

寺田創一 - ハウスだとLil Louisが衝撃的で、自分が始めて聞いたのが"French Kiss"です。それとか Mr. Fingersの曲がとても綺麗で大好きでしたね。

- ヒップホップだといかがですか?

寺田創一 - ヒップホップだと12inchにアカペラとか違うDJのリミックスとかがよく入ってたんですけど、Cold CutがEric. B & Rakimの"Paid In Full"のリミックスにOfra Hazaとかの声を乗せて作っていて、それが物凄く好きでしたね。100$札のジャケットも良かった!もちろんヒップホップの原曲も好きですけど当時リリックの意味とかが聞き取れていなかったので、アカペラトラックを公開して全く違うバックトラックと組み合わせる方法がすごく楽しいなあと思ってました。

 

- 当時はインターネットもないですし、クラブに行くくらいしか楽曲の情報を仕入れることは出来なかったと思うんですが、それ以外だとどうやって情報を入手していましたか?

寺田創一 - クラブに行く以外だと西麻布の交差点の近くにOM RECORDS(注 DJのHIROがプロデュースしていた日本初のハウスミュージック専門レコードショップ)というレコード屋があって、真夜中に開いていたんですよ。ちょうどクラブの営業時間と同じような時間に開いていて、そのOM RECORDSはレコード屋さんなんだけどクラブ状態になっていて、お店の人が新譜をずっとプレイしていて、聞きたいやつはすぐその場で繋いで聞かせてくれました。クラブでどうしても気になるレコードがあった時、DJに「なんですか?」って聞いて教えてもらって、帰りに寄っても店が開いている状態だったから、OM RECORDSには良く行きましたね。91年か92年くらいまではあったと思います。あのオウムとは関係ないですよ、仏教っぽい店でもなかったし。ハウスの他にもブートレッグのアカペラとかブレイクビートのレコードがあったかな。

- じゃあ当時レコードはかなり買われてたんですか?

寺田創一 - いやあ、それが自分はサンプラーとかコンピュータをローンで買ってるような状態だったので、パーティーとかクラブに遊びに行ったりして耳をダンボにして聞いていて、どうしてもこの曲は何度でも聞きたいと思った時だけブースに曲名を聞きにいって、それを家に帰ってからもずっと忘れられなかったらやっと買いにいくようなことも多かったし、あまり沢山のレコードは買えなかったんですよ。クラブにいるときは踊りながら聴いていて、何か思いつくとすぐ帰ったりして変なやつだったと思いますね(笑) 曲を聞いて覚えるというか、このコード進行とあのボーカルを合わせたら面白そうだとか思いついたら、それを頭の中でループにして帰ってから即試してみるということを続けてました。制作者視点+ダンスフロアにいる側だったかもしれません。クラブは平均すれば毎週くらい行ってましたし、YellowとかGoldがオープンしてからはより一層行くようになりました。

寺田創一

- ちなみに高橋透さんとかハウスを初期からプレイしていたDJの方とは交流はあったんですか?

寺田創一 - Goldができてから高橋透さんがレギュラーになって、Goldで金沢明子 House Mix のライブとかやるときにも大変お世話になりました。クラブで知り合った友達が透さんを紹介してくれたりとか、自分はプログラミングが得意だったので、DJが制作する企画CDには直接透さんをサポートしたわけじゃないけど一緒にそういう企画に参加する事もあったし、高橋透さんからはParadise Garageがあった頃のNYの話なども聞かせてもらいました。

 

- パーティーではコニーさんのパーティーが印象的だったということですが、印象的なDJはいましたか?

寺田創一 - DJっていう目線が自分には欠落していて、音楽の方に耳がいっていてDJという視点で見てなかったのかもしれないです。だから本当に覚えていないんですよね、掛かっている音に興味が100%いっちゃって。あ!でもDef Mixの面々がYellowに来たときはとても印象的でした。David Moralesと(Frankie Knuckles?と) 富家さんとかが来て、Def Mixの音源を延々、もちろんそれだけじゃないんですけど、そのグルーブがずっと続いて彼らの一糸乱れないミックスを何時間も連続で聴いてるとものすごい高揚感がありました。

- 88~89年頃にハウスやヒップホップに出会ってすぐに自身のレーベルFar East Recordingを設立してますが、当時個人でレーベルを運営するのは容易なことじゃないと思うんですが、自分のレーベルを設立した理由はなんだったんですか

寺田創一 - レーベルを作るっていうのは大変なように思えるんだけど、リリースしても年に2枚とかだから大変じゃないんですよ。当時一般の消費者用のリリースは全部CDに向かっていて、どんどんレコード工場が閉まっていく状況だったから、100枚とか200枚というオーダーでも工場が受けてくれるようになった頃だったんですね。それ以前だったらメジャーメーカーのものが優先されるだろうから、個人が100枚作るといっても無理だったと思うんですけど、現在では完璧に無くなっちゃってるような工場にオーダーすれば、当時は100枚、200枚単位でも作れたんです。だから今現在作るよりは安くできたと思います。その製造費は自分にとっては安くはなかったですけど。

寺田創一

- レコード屋には自分で卸しに行っていたんですか?

寺田創一 - そうですね、でも個人だからレコード屋には全然相手にされなかったので、友達のDJに手渡したりしていました。あとは、レコード屋で普通にレコードを買った時に手に入る値札が貼ってあるビニール袋、あれにその自主制作レコードを入れてお店のレコード面置きの棚にこっそり置いてきたりとか、そういうこともやりました。これはあまりにも精神的に緊張し過ぎて、2, 3回しか出来なかったです。それでも後になって分かったのは、置いた中の1枚をDommuneの宇川さんが偶然買ってくれていて、やって良かったなと思いました、本当に。"Sun Shower"が評判になった後は新宿のCiscoとかが置いてくれるようになったんで、そういうゲリラ的なことをやってたのは89年とか90年とかくらいだったと思います。置きにいったのは渋谷のWaveが多かったですが、これは犯罪行為だから絶対にやっちゃダメなんです。当時なんでそれを思いついたか忘れたけれど、多分自分の知らない人にも聞いてほしかったんですよね。

- 同時期に国内でハウスを作っていたプロデューサーとは交流はあったんですか?

寺田創一 - Shin-ichiro Yokotaくんとか松井(寛)くんとかとはありましたね。松井くんは自分でレコード作ってたし、彼が結構自由に使えるスタジオがあって、そこで一緒にセッションしたりとかもしました。

- どういう風に繋がっていったんですか?

寺田創一 - どういう感じだったっけなあ?どこかで会って話したりとかだと思うんですよね。選曲の仕事をしていた永山学さんとも一緒に曲を作ったりもしたし。でも松井くんや永山さんとどういう風に出会ったのか思い出せないです。彼らと話したら思い出せるかも。Yokotaくんと出会ったのは共通の友人がいて、自分がDJゴングショーにサンプラーを持ち込んだ時にその共通の友人がいて、そこから繋がった感じです。

- DJゴングショーにはヒップホップのアーティストもたくさん出ていましたが、そういった方面の方とは交流はありましたか?

寺田創一 - 80年代後半の頃ってハウスとヒップホップの境界線が曖昧でした。Yokotaくんが自分と同じ機種のサンプラーを買ったりしていたので、DJ KrushがまだKrush Posseだったときに、Yokotaくんの実家の工場の空いている部屋にそのコンピュータとサンプラーの組み合わせ機材を持ち込んで何か一緒にやった時はあったかも、、、今ではその記憶が曖昧になってしまいました。

寺田創一

- 富家さんやTei Towaさんなど当時NYで活動していた日本人プロデューサーとコンタクトを取ったりはしましたか?

寺田創一 - TeiさんはNYのTunnelっていうクラブでDJやってるのを目撃したりとか、彼がYellowでDJするときにレコードを渡しにいってちょっとだけ喋るみたいなことはありましたけど、交流というほどではなかったですね。富家さんとは全然交流はなかったですが、それこそさっき言ったコニーさんのパーティーで富家さんの曲を知ったように記憶してます。

- さっき"Sun Shower"の話が出ましたが、元々は依頼が来てリミックスを作られたんですよね。どういった経緯だったんでしょうか?

寺田創一 - 自分でレーベルを作ってレコードにしてた音源の中に"君が代"のリミックスというのがあって、ちょうど89年に昭和天皇が崩御したときにTVの録画したビデオテープを貸してくれた友達がいて、そこからサンプリングして作ったリミックスです。それを当時島田奈美さんの作編曲をしていた杉山洋介さん(現 Paris Match) が聴いて面白がってくれて、それで島田さんのリミックスをオファーしてくれて、89年の冬に"Sun Shower"を含むリミックスを6曲作ったんですよ。国内ではCDで発売されて、自分としては妙な自信があったので、その中の2曲をアナログ12inch のプロモ盤にしたいってレコード会社に頼んで、そのプロモ盤を持って89年の12月にNYに行ったんです。そこで石岡Hisaさん主宰のパーティーで石岡さんに会って、そのレコードを彼に託して帰ってきたというところまでが"Sun Shower"の最初のプロダクションだったんです。

- その後石岡さんからLarry Levanの手に渡ってプレイされたということだと思うんですけど、NYで自分の楽曲がプレイされていると聴いたときはどうでしたか?

寺田創一 - すごく興奮したのと同時にどういう風にかかっているのかが全くわからなかったので、それを聴きたくてNYに行ったりしました。実際自分で行ったときにも聴いたことは何度かありました。Choiceっていう石岡さんがやっているパーティーで聴いたと思うんだけど、そこらへんも記憶が少し曖昧です。でも後になって永山学さんがLarry LevanがSun Showerを何回かプレイしているDJミックスの音源をくれたのでそれで聴いた時の方が冷静に聴けたような気がします。元々Larry Levanはハウスといいながらも超幅広いところから境界線なくプレイするから、その中の1つのエレメントになったんだな~と思って、それはとても嬉しかったですね。

寺田創一

- 今回のアルバムのジャケット写真はNYのスタジオで撮られたということなんですが、NYでも制作をやられたってことなんですか?

寺田創一 - そうなんです。90年くらいには"Sun Shower"の評判があがって、その夏にその評判を聞きにいった頃は、Sun Showerに追加のプロダクションを加えてリリースしようという話もあってWest End Recordsの社長を紹介されたんですよ、その社長に紹介されたホテルに安く泊まれたりしてこりゃ~West Endから出せるのか~と思って嬉しかったんですけど。その後Larry LevanとWest Endの社長 Mel Cheren氏の仲が決裂して、代わりにLarry LevanとMark Kaminsのマネージャーの立場だったYuki Watanabeさんを頼って91年の1月にSun Showerのリプロダクションをやるために行った時にSoundtrack Studioで撮ったのが今回のジャケット写真なんです。

寺田創一 - 90年の夏、まだWest Endから出るかもしれないというときにNYに行った際、Sun Showerのアナログマルチテープを持っていって、今から思うと無謀なんですがそれを現地に預けてきたんです。多分そのマルチテープをコピーした後、ピアノとかドラムをを新しく乗せた新たなマルチテープがあるという状況になった約半年後に再度行ったんですね。最終的にはSun Showerのボーカルを全部とって、名前を忘れたんですがヴォーギングのダンサーのラップを入れて全然違う"Love's Gonna Get You"っていう曲名になって全然別のリリースになったりとかもしました。Sun Showerに自信があったといっても、普段コニーさんとかのパーティーとか色んなクラブに行ってハウスに触れた感覚で作っただけで何の根拠もなかったし、自分でなんか良いのが出来たはずだな~っていう位のものでした。

しかもリミックスが出来上がった後にレコード会社の人の意見かわからないけど、間接的に「すごく曲が地味になった」って言われました(笑) 当時はサンプラーにオケを入れて激しく連打して、ドラムにドカーンとエコーかかってるLatin Rascals的な派手でキラキラしたものこそがリミックスっていう認識があったから。でも自分としては地味にしたつもりは全然なくて、何か根拠のない確信があってアナログ盤を作りたいと申請したと思うんです。そのNYに最初に渡ったレーベルが真っ黒の45回転のレコードは日本コロンビアがプレス費用を出してくれて作ったものですが、11種類のリミックスが収録されているSun Shower Remixes は1990年にFar East Recording で制作しました。

-  King Street Soundsの前身のBPM Recordsから最近デジタルで再発された、『La Ronde』にも参加されてますよね。あのコンピレーションはHiphopからHouseまで幅広い人選でしたがどういった経緯で参加されたのでしょうか?

寺田創一 - 『La Ronde』に自分の"Low Tension"が入ったのは、永山学さんと石岡Hisaさんの繋がりでそうなったんじゃないかと思います。エグゼクティヴプロデューサーのクレジットに石岡さんともう1人の名前があったので、その2人がプレス費用を負担していたってことじゃないかなと。実際BPM Recordsの通し番号が盤面の内側に刻印してあるって気づいたのは最近になってからなんです。当時King Streetに石岡さんが住んでいて、レコードのプレスをお願いできたので、自分のハウスのアナログ盤製造を石岡さんにお願いしたことが何回かありました。その時は自分のレーベルは製造通し番号すらつけてなかったんですけど、その当時のレコードの盤面をみるとBPM-002とか書いてあって、石岡さんが工場にオーダーするときの通し番号としてBPMっていう名前を使っていたんだなあと今になって気付きました。石岡さんにプレスをお願いすると石岡さんのやっていたNYのパーティーとかでもサンプル盤としても当然出回る可能性もあったと思いますし、『La Ronde』に関しては石岡さんも日本のプロダクションをNY経由で発表させるという計画を色んな人とやってたと思うんです。

- 当時の東京とNYのパーティーでかかる音楽は似てたりしましたか?

寺田創一 - 自分の印象では、そんなに違わないんじゃないかな、もちろんパーティーによると思うんですけどそんなに違う印象はなかったです。もちろんNYのパーティーでかかっていたレコードも東京にたくさん輸入されてきていただろうし、ただその選曲の幅っていうかこれは絶対最近リリースされてないよなみたいな音源が、違和感無く繋がって行く境界線ない感じはNYの方があったと思いますけど、ほぼ似てたとは思います。そんなに頻繁にNYに行っていたわけではないから、断言はできないですけど。

- 拠点をNYに移して制作したいと考えたことはありましたか?

寺田創一 - NYを拠点にというのは憧れですよね。富家さんかっこいいな~と思っていました。TeiさんもDeee-LiteをNYでやってたし。でも自分はその頃コニーさんのパーティーにママチャリで行くくらいだからお金もそんなに余裕ないし、それは考えもつかなかった(笑)

寺田創一

- アメリカと日本で距離感があることが寺田さんのサウンドのオリジナリティーになっていて、今回のリリースになっているのかなと想像できるんですが。

寺田創一 - そうだと嬉しいんですけどね。確かにNYの音はDef MixとかStrictly Rythmとか色んなレーベルが存在していて、完璧にそのレーベルの色が出来てたから。どうやったらあんなにマッシブでタイトな音が出せるんだろうって思って、色々自分で試すんですけどやっぱりおよばないし、できないわーっていう実感でした。でもこれは自分の衝動で作ったものだから、自分のレーベルからでも出そうみたいな、そういうことだったと思います。NYみたいな音にはできなかったけど。

- ちなみに当時作られたトラックって未発表のものも含めると何曲くらいありますか?

寺田創一 - 12インチとかCDにして発表したのは20~30曲くらいだと思うんですけど、出してないものも含めたら40から50くらいはあったかな。ただループだけできて没になった曲も含めての数だと思うんですが。Discogsには自分がFar East Recordingから出した物を全部は網羅はしていなくて、自分でちゃんとこういうのもあるって投稿するか自分のサイトに整理してまとめた方がいいんじゃないかってBrawtherに言われて、そうだなあって言われる度に思うんですが、やろうやろうと思ってまだ出来てないですね。あと"Sun Shower"の最初のプロモ盤のように、日本のメーカーのものとして作ったのに無記名レーベルの盤が載っているものもあるし、あとは本当のブートレッグのレコードも"Sun Shower"ではあったりするみたいです、自分は見たことないですが。

寺田創一

- 先程の"Sun Shower"のリミックスの話もありましたが、当時ハウスが盛り上がっていてメジャーレーベルの人にとってはハウスはどういう印象だったと思われますか?

寺田創一 - うーん、どうだったんだろう?でもやっぱり日本の多くのレコード会社にとっては歌ものが中心だったから、バックトラックの一種みたいに思われてたのかな?とも思います。コンピュータで作る歌伴奏のような、曲で支配的なのは歌と歌手だから、変わった額縁くらいに思われてたんじゃないかなって。でもこれは自分の偏見かもしれないなあ、そう思っていないレコード会社の人もいたとは思うんですけど。

- 94年頃から寺田さんはジャングルを作ったりもしていますが、ハウスに一番関心があったのはいつ頃でハウスというフォーマットから離れ始めたのはいつ頃でしょうか?

寺田創一 - 一番興味がグワーっていった頃は89~90年ぐらいだったと思いますが、94年でもハウスのトラックを作っていました。すでに92年~94年くらいにはドラムンベースとかジャングルのシーンがあったと思うんですけど、95年にクラブでジャングルを爆音で聴いたときになんて面白いんだろうと気付いて、そこでジャングル病にかかりました(笑) しかも当時、最初ハウスなのにテンポが上がっていってBPM160くらいまで上がるっていうレコードがあって、自分でもその曲が楽しいな~と思っていました。青山のマニアックラブとかでもBPM135くらいのテクノからドラムンベースに繋がる曲がかかると「あっ今からドラムンベースだ~」と思って何とも楽しくなった記憶があります(笑) 日本では少なかったけどドラムンベースのパーティーにも行って、LTJ Bukemが来たときにもとても興奮しましたね。

- クラブにはずっと行き続けていた感じですか?

寺田創一 - プレイステーションを97年くらいに友達にもらってから急にプレイステーションばっかりやって全然クラブに行かなくなった時期がありました(笑) かつてクラブに行ってた時間にずっとプレステやっていたんです。最初にゲーム音楽を作った頃は、クラブによく行っていてたんですけど、プレステをもらった十数ヶ月後にSumo Jungleを聴いてくれていたベースミュージック大好きなゲーム監督がサントラ制作の話を振ってくれて、それがきっかけでサルゲッチュの仕事をやるようになりました。

- ハマるときはとことんハマってしまうんですね。

寺田創一 - 自分ではそういうつもりはないんですけど、多分そうです。でもドラムンベースもハウスもみんなハードウェアのサンプラーで遊んで作ってる音楽だと思うし、自分にとってもサンプラーは革命的な楽器だったからそういう所で共通点はあるのかも。

- そろそろ締めに入りたいんですが、寺田さんにとってのハウスの時期は自分にとってどういった時期でしたか?

寺田創一 - うーん、なんだろう?爆音で甘い響きを聴く快感を知った時期だったんですね。音量がデカくて迫力もあるんだけど曲自体はすごいメロウな響きで、そのサウンドの感触とサンプラーで作るバカっぽい感じが組み合わさって、能天気なのにすごくあったかいって感じですかね。狂っていないし制御されてるんだけど、バカな音っていうか。サウンドシステムの音響体験と能天気な発想の同時体験だったのかな。今でも自分にとってハウスは幸せ感あふれる音楽です。

寺田創一

- 今ライブでハウスセットもまたやられていますし、今回のリリースもありまたハウスのトラックを作りたいっていうモチベーションにはなっていますか?

寺田創一 - 作るというか、今回のことがきっかけで当時のファイルを昔のコンピュータから引っ張り出してきて、鳴らし直してみると新しい発見があったり、途中でほったらかしにしたものもこうすればいいのかな?っていう発想も少しあります。昔の妙な勢いではできないかもしれないんですけど、甘い音で、太くて、能天気で、幸せ感あふれる音の世界はハウスセットも含めてやりたいな~と思います。そういう中に最近作ったり、当時は没にしたものとかを盛ったりできるかもしれません。

- ありがとうございます。聴けるのを楽しみにしています。

寺田創一

RELATED

【インタビュー】DYGL 『Cut the Collar』| 楽しい場を作るという意味でのロック

DYGLが先ごろ発表したニューEP『Cut the Collar』は、自由を謳歌するバンドの現在地をそのまま鳴らしたかのような作品だ。

【インタビュー】maya ongaku 『Electronic Phantoms』| 亡霊 / AI / シンクロニシティ

GURUGURU BRAIN/BAYON PRODUCTIONから共同リリースされたデビュー・アルバム『Approach to Anima』が幅広いリスナーの評価を受け、ヨーロッパ・ツアーを含む積極的なライブ活動で数多くの観客を魅了してきたバンド、maya ongaku

【インタビュー】Minchanbaby | 活動終了について

Minchanbabyがラッパー活動を終了した。突如SNSで発表されたその情報は驚きをもって迎えられたが、それもそのはず、近年も彼は精力的にリリースを続けていたからだ。詳細も分からないまま活動終了となってから数か月が経ったある日、突然「誰か最後に活動を振り返ってインタビューしてくれるライターさんや...

MOST POPULAR

【Interview】UKの鬼才The Bugが「俺の感情のピース」と語る新プロジェクト「Sirens」とは

The Bugとして知られるイギリス人アーティストKevin Martinは、これまで主にGod, Techno Animal, The Bug, King Midas Soundとして活動し、変化しながらも、他の誰にも真似できない自らの音楽を貫いてきた、UK及びヨーロッパの音楽界の重要人物である。彼が今回新プロジェクトのSirensという名のショーケースをスタートさせた。彼が「感情のピース」と表現するSirensはどういった音楽なのか、ロンドンでのライブの前日に話を聞いてみた。

【コラム】Childish Gambino - "This Is America" | アメリカからは逃げられない

Childish Gambinoの新曲"This is America"が、大きな話題になっている。『Atlanta』やこれまでもChildish Gambinoのミュージックビデオを多く手がけてきたヒロ・ムライが制作した、同曲のミュージックビデオは公開から3日ですでに3000万回再生を突破している。

Floating Pointsが選ぶ日本産のベストレコードと日本のベストレコード・ショップ

Floating Pointsは昨年11月にリリースした待望のデビュー・アルバム『Elaenia』を引っ提げたワールドツアーを敢行中だ。日本でも10/7の渋谷WWW Xと翌日の朝霧JAMで、評判の高いバンドでのライブセットを披露した。