【コラム】Aaliyahとその時代
2021年8月25日は、Aaliyahの20回忌だった。かつて「プリンセス・オブ・R&B」と呼ばれ、15才から22才までの短い活動期間で多くを成し遂げた歌姫(ディーヴァ)だ。20回忌の2週間前に、非合法に結婚していたとの噂があったR. Kellyとの関係が法廷で初めて明るみに出た。そのタイミングで、所属レーベルの社長で叔父でもあるバリー・ハンカーソンがAaliyahの母と兄が中心になっている遺族会と折り合いがつかないまま、これまでストリーミング・サーヴィスで聴けなかったセカンド『One In A Million』以降のアルバムと『ロミオ・マスト・ダイ』のサントラなど関連作品を解禁するのがニュースになった。
セスナ機の墜落事故による早逝、未成年での偽装結婚などインパクトが大きい情報が多いせいか、21世紀に入ってからブラック・ミュージックのファンになった人にとって悲劇的な印象が強い人かもしれない。そのふたつの情報も押さえつつ、だがこの原稿は「Aaliyahの人生をセレブレートする」ために記す。私は2000年と2001年にの2回、対面インタビューをしている。テレビの画面で見る以上の美貌と、片目を前髪で隠した少し暗いイメージに反して屈託なく笑う明るい女性で、驚いた。そのときの発言を引用しながら本稿を進めたい。
文 : 池城美菜子 / Minako Ikeshiro
年齢なんてただの数字
Aaliyah Dana Haughtonは1979年にブルックリンで生まれ、5才のときにミシガン州のデトロイトに引っ越している。自身もシンガーだった母親の後押しもあり、子どもの頃かヴォーカル・トレーニングを受けて6才からで歌い始めている。彼女のキャリアに深く関わったのが叔父のバリー・ハンカーソン。弁護士資格をもつ彼は、1974年から79年まで大物R&BシンガーのGladys Knightと結婚していた。ふたりが息子の親権で争ったものの、子ども時代のAaliyahはGladysにくっついてショウビスに足を踏み入れオーディションを受けるようになる。10才でテレビ出演を果たし、11才でGladysのコンサートで歌ったが、さすがに若すぎてハンカーソンが尽力してもレコード契約を結ぶまでには至らなかった。
ハンカーソンは1993年にブラックグラウンド・エンタープライズをスタートさせ、マネージメントをしていたR. Kellyのつてを使ってジャイヴ・レコーズとAaliyahの契約にこぎつける。ハンカーソンとレコード会社の意向に沿って、1994年にリリースされた『Age Ain’t Nothing but A Number』のプロダクションはR. Kellyが一手に引き受けている。Aaliyahが14才のときのレコーディングだが、いま聴いてもその年頃の少女の歌声に聴こえない。コントロールが効いたソプラノ・ヴォイスで歌い上げるデビュー・シングル"Back & Forth"やタイトル曲がまとう憂いはとくに大人っぽい。Isley Brothersのカヴァー"At Your Best (You Are Love)"での可憐な歌声は天使のようだが。このアルバムは高い評価を得てダブル・プラティナムを記録し、Aaliyahはいっきにファンを獲得する。
R. Kellyとの真実
当時から12才年上のR. Kellyと不適切な関係だったのでは?との噂は絶えなかった。1994年の終わりに、アーバン系の人気雑誌Vibeが15才だったAaliyahが18才と偽り、27才だったロバート・ケリーことR. Kellyとイリノイ州で提出した婚姻届の写真をすっぱ抜いた。だが、双方がこの時期までに音楽的な師弟関係を解消していたうえに口を揃えて否定したので、その件はうやむやというか公然の秘密になった。
2ndアルバム『12 Play』から過剰に性的な音楽で売っていたR. Kellyは、「好き者」のイメージはあってもだれも犯罪者だとは思っていなかった。そう思うには、90年代後半から00年代前半までのR.Kellyのチャートを制覇するパワーは強烈すぎた。96年にはマイケル・ジョーダンの主演映画『スペース・ジャム』から"I Believe I Can Fly"がクロスオーヴァー・ヒットを記録、メインストリームに食い込む。あの時代、R. KellyはR&Bから出た絶対王者だった。一方のAaliyahも、デビュー作が出た直後にマネージャーをバリー・ハンカーソンから父親に、レコード会社をジャイヴ・レコーズからアトランティックに変えてリスタートする。
R. KellyとAaliyahのあいだに何があったのか、真実が語られたのは27年後だ。『New Yorker』誌9月1日付の記事「The focus finally turns to Aaliyah, in R.Kelly trial」(R.Kellyの裁判でとうとうAaliyahに焦点が当たった)では、Aaliyahが12才のときにR. Kellyに紹介されたこと、会ってまもなくR. Kellyが手を出したこと、94年にAaliyah から「妊娠したかも」と連絡を受けて慌てたR. Kellyが偽の結婚で彼女を黙らせようとし、8月31日に賄賂を使って婚姻届を取得したこと、彼はすぐにツアーに戻り、Aaliyahをシカゴで待たせようとしたものの、彼女は両親の元に帰ったこと。その後、両親がすぐに行動をとって婚姻届は無効になったものの、ハンカーソンとR. Kellyの弁護士のあいだでこの事件について公にせず、Aaliyah側から訴えないと約束する契約が交わされた、というのが大まかなところだ。
2021年現在からは、終始カメラの前にいたスター同士のスキャンダルが一部メディアに漏れたのに、そのまま活動できたのが不思議に思えるだろう。だが、正確な情報でもデマでも瞬く間にインターネットで拡散されるいまとは、四半世紀前の情報の伝わり方はちがった。携帯電話とインターネットも存在していたけれど、四六時中、情報を得るためには利用されていなかった。情報の順序や鮮度も大事で、雑誌やラジオで話題になっても、次にまったく同じ媒体が新しい曲、話題、イメージを与えたらそちらで上書きできた。周りの大人たちに守られ、新しいキャリアを築き始めたAaliyahも、新作やら映画出演などの華やかなニュースでR. Kellyとの噂はかき消された。
100万回に1回の愛
1996年8月に出た2ndアルバム『One In A Million』は単にヒットしただけでなく、その後のR&Bを変えるような新しい音が詰まっていた。Jermaine DupriやRodney Jerkins 、そして無名だったTimbalandなど複数のプロデューサーを起用。Timbalandは17曲中9曲をプロデュースし、それらの曲のソングライターはMissy Elliottだった。奇しくもAaliyahは、チキチキと鳴る特徴的なハイハットを指して日本でも「チキチキ・サウンド」と呼ばれたMissy&Timberlandを世の中に押し出すミューズとなったのだ。Missyは翌年、『Supa Dupa Fly』で大ブレイクする。
このふたりとシンガーのGinuwineはもともとR&BグループJodeciのDeVante Swingの元にいた仲間であり、プロデューサーとして天賦の才がありながら、ドラッグの問題を抱えていたDeVanteのところでくすぶっていた。一方のAaliyahもR. Kellyの件が影を落とし、当時売れていたプロデューサーたちは彼女と仕事をするのに二の足を踏んだという。Missy ElliottとTimbalandは、まだ高校生ながら自分の音楽に責任をもち、ふたりの起用を決めたAaliyahを「恩人」だと明言している。『One In A Million』からはタイトル曲と"If Your Girl Only Knew"、"4 Page Letter"がヒットする。「あなたの愛は100万回に1回」と歌う"One In A Million"はセクシーな曲で、Aaliyahがそれまで築いたイメージを捨てるつもりはないことをはっきり示していた。
Timbalandとの出会いを、Aaliyahはこう振り返っている。
「駆け出しの頃、彼がテープを送ってきてくれたの。歌は嫌いだったんだけど、トラックがすばらしかったから、デトロイトに飛んできてもらって、すぐに作業に入った。それ以来、4年になるけどヒットに恵まれてラッキーだと思う」
私が「MissyとGinuwineもあなたとはすごくいい友だちだと言っていました」と振ってみたところ、
「仕事でも組んでいて、なおかつ友だちって関係はクールよね。Missyとはよくつるんでいる。スタジオでは、彼女は詞を書いて、ヴォーカルアレンジをして、時にはバックグラウンドヴォーカルまでやってくれる。彼らはいつでも私のためにすごいアイディアを用意してくれて、スタジオに行ったら私はそれに果敢に取り組むの」
"One In A Million"について、Missy Eliottは2003年のインタビューでこう話している。私からの質問は「ほかのアーティストに提供した曲の中でベスト・プロダクションだと思う曲は?」だった。
「“One In A Million”で私とティムへの評価が変わったと思う。ビートが全く新しかったから、ラジオ局の人は“何これ? ほかの曲とつなげられない”って文句を言っていたんだけど、試しにかけてみたらすごく反響があって。“If Your Girl Only Knew”は私にしてみたら普通の曲だったし‥。“One In A Million”はベースの入れ方からメロディまで全く違かったから、あれが一番好きな曲ね」
Aaliyahが亡くなってから1年ちょっとのタイミングだったため、私は名前を出さないように気を遣った記憶がある。それでもMissyが話してきたので驚きつつ、いつも彼女のことを想っているんだろうな、と悟った。
アジア系男性に希望を与えた『ロメオ・マスト・ダイ』
Aaliyahは映画のサントラのヒットも多く、新進気鋭の俳優でもあった。97年はフォックスのアニメ映画『アナスタシア』の主題歌"Journey to The Past"に抜擢され、アカデミー賞の最優秀主題歌賞にノミネートされたため、授賞式でも歌った。この時の体験について「授賞式というものに慣れていなかったし、とてもエキサイティングだった。タイタニックの年だから、最高視聴率を記録したのよ」と、胸を張って話してくれた。『アナスタシア』は日本でもミュージカル化されている。98年に公開されたエディ・マーフィー主演『ドクター・ドリトル』の"Are You That Somebody"も大きかった。この頃のAaliyahはミュージック・ヴィデオからトレンドを生み出す女王たちのひとりであり、ゴス系の濃い目のメイクやバギー・パンツにぴったりしたトップスを合わせるファッションが流行った。
そして、決定的だったのが『ロミオ・マスト・ダイ』。00年3月に公開されたヒップホップ系カンフー映画の大ヒット作だ。Aaliyahはヒロインのトリッシュ役で、主演のジェット・リーと敵対するギャング団の娘ながら恋仲になる役だった。2021の4月に亡くなったDMXも出演しており、ブルックリンなどのブラック・ネイバーフッドの映画館は封切り日から大騒ぎになった。アジア系男性と黒人女性の組み合わせが新鮮で、周りの在米日本人男性の友だちが妙に盛り上がっていたのも懐かしい思い出だ。Aaliyahは主題歌の"Try Again"も担当、Timbalandとジェット・リーが出演しているMVはヘヴィー・ローテーションで流れた。1回めのインタビューは映画のヒットを受けての取材だったので、とくに印象的だったシーンについて訊いた。
「映画の中で、敵が女性だったため、ジェット・リーが“自分で手を下せない”と言って、あなたを操って戦うシーンがありました。あれは特撮ですか?」と尋ねたところ、
「違う、ワイヤーで吊って自分たちでやっているの。あのシーンで跳んだりはねたりしているのは全部私。1カ月特訓してやり方を覚えたの。スタントを使うように提案されたけれど、嫌だったからね。人を蹴ったりするのは楽しかった」
「実は、ジェット・リーとのキス・シーンも撮ったの」とも教えてくれた。14才の年齢差もあり、結局はカットになったが。ぜひこの機会にストリーミングで見られるようになってほしい作品だ。
3rdアルバムとAaliyahの功績
2001年7月、Aaliyahはセルフタイトルの3rdアルバムを出す。Timbalandのプロデュースは14曲中3曲のみで、代わりにブラックグラウンド所属のプロデューサーが多く参加している。また、ソングライターは多忙を極めていたMissyが1曲に留まり、Timbalandと仲の良いR&BトリオのPlayaからStephen "Static Major" Garrettが実に10曲を書き、 Benjamin "Digital Black" Bush が1曲、ソロ・デビューしたばかりだったTankが2曲書いている。プロダクションを身内で固めたのが功を奏し、『Aaliyah』はシンガーとしての彼女の魅力をあますところなく聴かせるさすばらしい作品だ。全員でオーストラリアに飛んで、合宿状態で制作したそう。リリース直前のAaliyahの言葉を引用しよう。
「歌だけなくトラックにしても徹底的に話し合って、私の感じていることやアイディアを形にすることができた。そういう意味で、私自身をよく表したプロジェクトになって満足している。トラックにしても、クラブでかけられるようなホットなトラックも、歌唱力の幅を見せられるようなメロウなとバラッドも絶対に入れたかった」。
「2度とあなたに手を上げさせない」と歌う"Never No More"についてこう話す。
「自分の成長に合わせてシリアスなトピックに取り組んでみたい希望はあった。"Never No More"では社会的にコンシャスな内容を歌ったの。若い女性が自力で虐待的な関係を断ち切る話で、私の過去から浮かんだ内容。こういったトピックを歌うのにふさわしい時期、ふさわしい曲に恵まれて良かったと思う。まじめな内容だけど説教っぽくはないし。女性がもうたくさん、これ以上は私に対して手を上げさせないとはっきり言うのね。似たような状況にある人が、これを聴いて勇気づけられて立ち直れることを願っている」
この発言を受けて、20年前の私は「しかし、虐待的な男女関係を理解できる過去の体験とは、一体。まさか、ロバートさんじゃないよなぁ。訊けなかったし、少し知りたくない気もする」とマヌケの極みのような文章を書いている。8月の裁判によるとAaliyah側は口外しない契約をすでに交わしていたので、7年後にギリギリの形で曲にしたのが"Never No More"なのだ。
この取材の3カ月後、"Rock The Boat"のヴィデオ撮影のために訪れたバハマの帰路で、セスナ機の重量オーバーでAaliyahは命を落とす。その2週間半後に同時多発テロ事件が起き、ワールドトレード・センターが崩れた。だれにでも一生のうち、とても死を身近に感じる年があると思う。日本に住んでいれば2011年がその年だった人も多いだろうし、2020〜2021年にそう感じた人もいるかもしれない。私にとって2001年がその年だった。ニューヨークの状況や個人的な事情もあったし、目の前で「ニューヨーク大学に行きたい」「マトリックスのZee役に抜擢されて本当にうれしい」と笑顔を見せたAaliyahが突然、亡くなったショックも大きかった。この原稿のために『Aaliyah』を聴き返したら、少しフリーズしてしまったほどに。
そして、ひとつ気がついたことがある。2001〜2002年のあいだ私は『Aaliyah』、とくに"More Than A Woman"に救われた。それはこのアルバムを抑えてビルボード1位でデビューしたAlicia Keys『Songs in A Miner』や、Aaliyahの最後の彼氏との噂があったDamon DashとJay-Zが生み出した傑作『The Blueprint』も同じであり、音楽が私たちに絶対必要な理由はそこにある。 だから、どうかAaliyahを悲劇のヒロイン、犠牲者みたいに扱わないでほしい。Aaliyahは、私たちを励ますために生ききった人なのだ。
その『Aaliyah』が9月10日にストリーミングで公開される。これはブラックグラウンド2.0とビジネスを立て直したバリー・ハンカーソンが遺族会を強行突破した結果であり、その点については複雑ではある。ハンカーソンは、マネージメントをしていたToni Braxtonにも訴えられているので決してクリーンなビジネスマンではないだろう。だが、一時代を築いた数々のヴィデオがオフィシャルの形でYouTubeにアップロードされたのはありがたいし、できればAaliyahのお母さんのお兄さんが納得できる形で彼女の功績が知られるといいな、と思う。
Aaliyahの音楽的な功績は、多くのアーティストのなかに受け継がれている。はっきりと影響を口にしているBrandyや"I Don’t Wanna"のカヴァーを披露したJhene Aiko、2013年"Don’t Think They Know"でヴァーチャル共演をしたChris Brown、熱狂的なAaliyahファンとして知られるDrakeなど枚挙にいとまがない。Drakeは2014年にAaliyahのヴァーチャルアルバムの制作まで画策して、遺族会にあっさり断られている。いまのR&B、ヒップホップ、そしてポップを聴いている人はすでに間接的にAaliyahが遺したレガシーに触れている。今度は直接アルバムを聴いたり、ヴィデオを観たりして彼女のスピリットを感じてほしい。
Info
2021年のリリース予定はこちら(全米時間)
8月20日 Aaliyah 『One In A Million』
8月27日 Timbaland & Magoo 『Welcome To Our World』『Indecent Proposal』『Under Construction, Part II』 Timbaland 『Tim’s Bio: Life From Da Bassment』
9月3日 『Romeo Must Die』『Exit Wounds』Movie Soundtracks
9月10日 Aaliyah 『ΛΛLIYΛH』
9月17日 Tank『Force of Nature』『One Man』『Sex, Love & Pain』
9月24日 JoJo 『JoJo』『The High Road』 Ashley Parker Angel 『Soundtrack To Your Life』
10月1日 Toni Braxton『Libra』
10月8日 Aaliyah 『I Care 4 U』『Ultimate Aaliyah』