J Dillaの音作りの秘密に迫る書籍『J・ディラと『ドーナツ』のビート革命』が5月に刊行 | 序文を独占公開
早世の天才ビートメイカーJ Dilla。今なお世界中で聴かれ続けているJ Dillaサウンドの秘密に迫る書籍、『J・ディラと『ドーナツ』のビート革命』が5月にDU BOOKSより邦訳・刊行される。
この本はカナダのトロントを拠点とするフリーランス・ライター兼編集者のジョーダン・ファーガソンによるもので、Dillaの生い立ち、地元デトロイトの音楽シーンからSlum Village、A Tribe Called Quest、The Soulquariansでの制作秘話が明かされる。
さらに盟友Madlibとの邂逅、そして病魔と闘いながら作り上げた『Donuts』まで、Dillaのキャリアを徹底総括する。ヒップホップ/ビートミュージックシーンのみならず、のちの凄腕ドラマーたちの奏法にまで影響を与えたあの“揺れるビート”の秘密に迫る。
日本語版には、自身もビートメイカーとして活動する本書訳者・吉田雅史による解説/ディスクガイドを追加収録する。次ページではStones ThrowのオーナーPeanuts Butter Wolfによる序文をFNMNLだけで独占公開。
僕が最初にディラと仕事を始めたのは1997年のことだった。共通の友人であるDJハウス・シューズから彼のことを聞いたのだ。ハウス・シューズはデトロイトのレコード屋で働いていて、94年に僕が制作した《Peanut Butter Breaks》というタイトルのレコードを注文してくれていた。彼は〝ジェイ・ディー〞という名前のビートも作るデトロイトのDJのことをいつも僕に話してくれた。ある日、そのジェイ・ディーがQ・ティップと仕事をしており、ア・トライブ・コールド・クエストの制作中のアルバムでトラック作りを担当していると教えてくれた。さらにハウス・シューズによれば、デ・ラ・ソウルやバスタ・ライムスなどの有名ラッパーの曲をジェイ・ディーはリミックスしていると言うのだ。彼はオファーを受けたわけでもなくそれらのリミックスを作ったのだが、レーベルが興味を持ってくれなかったために日の目を見なかったのだ。ハウス・シューズが、それらをレコードにすることに興味があるかと訊くので、1000枚プレスすることにした〔訳注:97年に「House Shoes Recordings」から《Jay Dee Unreleased EP》と題したプロモーション盤としてリリースされ、盤面がブルーとグリーンのふたつのバージョンが存在する〕。僕は日本にコネがあったから、そのレコードはすべて日本に送った。
90年代の中盤から後半にかけてのディラの初期作品は、すべて首尾一貫していた。ソウルフルで、必要最低限の音で構成されたブーンバップだ〔訳注:低音の効いたキックドラム(ブーン!)とパンチのあるスネア(バップ!)を中心に構築されるヒップホップのビートのスタイル〕。彼には方程式があった。フィルターがかかったベースラインに、パンチのある打ち込みのドラム、そしてウワモノには生っぽいフェンダーローズ。それが「ジェイ・ディー・サウンド」だ。彼がこの方程式を築き上げた理由のひとつは、サンプリングに頼りすぎないためだったのだろう。この頃までにヒップホップの世界では、サンプルのクリアランスを取得するのが非常に難しくなっていたからだ。メジャーレーベルのサンプリングをベースにした楽曲は、法的な諸々の影響を受けてどれもスクラップに成り下がっていた。しかしマッドリブによるルートパックやクァジモトのプロジェクトはそれらとは正反対だった。ずっと少ない予算で、ずっと少ないファンのために制作されたから、もっと実験的だった。いたるところが音楽的で、サンプルがぎっしりと詰まっていた。ルートパックの《Soundpieces》とクァジモトの《The Unseen》という2枚のアルバムは、メジャーレーベルからは絶対にリリースされることのない作品だろう。
2001年にマッドリブと僕は、ディラのMCAのアルバム(やがてお流れとなってしまう)制作のため、デトロイトへ飛んだ。スーパープロデューサーでもあるふたりのMCは共に、当時ビートメイキングというゲームの頂点にいた。にもかかわらず、各々がいつもと違うビートを出し合った。ディラのトラックはプロのスタジオで制作され、彼は音作りのサイエンティストのようだった。一方のマッドリブは、自らを「穴居人と野獣」と公言するように、レコーディングの過程でトラックを区切ることすらも意に介さなかった。彼のトラックはずっとルーズで、全くプロフェッショナルには聞こえなかった。しかし驚くべきことに、彼らがジェイリブという名前で一緒に最初の(そして最後の)フルアルバムに取り組むと、マッドリブはラップ用のトラックとして、エネルギーに溢れ、コマーシャルと言えるほどのサウンドをディラのトラックから選んだ。対してディラは生々しくルーズなサウンドのトラックをイーゼルに選んだ〔訳注:イーゼル、または画架は、画家がカンバスを載せて固定する台であり、ここではラップを支えるビートのたとえとなっている〕。ディラがLAに拠点を移すと、彼らのプロダクションのスタイルはひとつに溶け合ったように見えた。彼らを一種の新しいクルーとして眺めながら、僕は初めてこう考えるようになった。つまり彼らは本物のコラボレーターとして、互いに自身と同じ「天才」を見つけたのだ、と。彼らはふたりで、ヒップホップに携わる誰よりも巨大で唯一無二の存在になりつつあった。型破りなボヘミアンたち。しかしディラの病気は進行し、制作の勢いは後退してしまう。彼はコモンのアルバム《Be》全編をプロデュースすることになっていたが、結局11曲中の2曲を手掛けるに留まった(その他の曲はカニエがプロデュースした)。彼は病院で1年間を過ごしていた。
2005年のある日、ディラは僕をレコードショッピングに誘ってくれた。僕はその日のすべての予定をキャンセルして、彼を迎えに行った。彼は1枚のCDを僕に手渡した。そこから後のことは皆の知る通りだ。
僕はこう考えるのが好きだ。《Donuts》は、ディラがストーンズ・スロウのために制作してくれた、風変りで全くもってクリエイティヴなレコードだ、と。その前年、僕はマッドリブの《Beat Konducta vol. 1 EP》をアナログのみでリリースしたところだったが、それを青写真としてストーンズ・スロウは拡大しようとしていた。
《Donuts》を単にマッドリブ・サウンドのディラなりの解釈だと考えるのは、不名誉なことだろう。マッドリブのプロダクションとは異なる、数々の独特な点があるからだ。彼がヒップホップを変えるために用いたテクノロジーの使い方には、ピラミッドの奇跡のようなところがある。あれからほぼ10年が経ち、当時音楽制作でできなかったことを実現するのは、いまやテクノロジーの発展によってもっと簡単なことになった。にもかかわらず、一世代前のビートメイカーである僕は、ディラがあのレコードのいくつかの曲で一体全体何をやっているのか理解できていないのだ。しかし彼のテクノロジーとは、ファンクやソウル、そして人間のフィーリングを失ってしまうほどに理性的なものでもなかった。彼はテクノロジーを使って、音楽のエモーションを管理下に置こうとはしない。そうではなくて、それをただ引き立たせるのだ。彼の楽曲は、初めはシンプルなサウンドに聞こえるだろう。しかし使われているサンプル元の原曲を聴けば、ディラが音楽を創造する技術の見事さに気付かされるのだ。それはオリジナルな音楽を作り出す、サンプリングのアートだ。
僕たちは《Donuts》を2005年の10月にリリースしようとしたが、制作の締め切りに間に合わなかった。するとディストリビューターは、次の年まで待つように忠告をくれた。さもなければ、デスティニーズ・チャイルドやマドンナたちとのクリスマス商戦に巻き込まれてしまうからだ。このレコードは、ストーンズ・スロウのファン向けに売れると思われていた。僕たちがこのレコードを売り込む業界の誰もが、それ以上のことは全く予想していなかった。「インストゥルメンタルのヒップホップのレコードは売れない」という類のことは聞いていたから、僕はこう答えることにしていた。「これを従来のインストゥルメンタルのヒップホップのレコードだと思わないでくれよ。もっとDJシャドウの《Endtroducing》のようなものだと思って欲しい」と。2005年のリリースの締め切りを過ぎてしまったとき、僕たちは発売を彼の誕生日の2月まで後ろ倒しにすることにした。当初僕はリリースパーティでディラにDJをしてもらうつもりでいたが、彼の健康は再び悪化していた。しかしそれはあくまでも一時的なものだと思っていたから、リリースパーティではJ・ロックと僕でディラの音楽だけを一晩中回すという案を思いついた。ディラがパフォームすることはなくても、運が良ければそのときまでに健康状態が良くなって、僕たちのプレイを見に来られるかもしれないと思っていた。
ところがリリース日の週には、僕たちは音楽に集中することも、アルバムのプロモーションに集中することもできなくなっていた。極端に悪化しつつある彼の健康状態を皆が気にかけていた。《Donuts》がリリースされても、少しも僕たちの気が紛れることはなかった。僕たちはまさに起こりつつある、受け入れ難い出来事と向き合わなければならなかったからだ。ディラの命は失われつつあった。彼の誕生日が来るまでにそこまで悪い状態になってしまうとは、全く思ってもみなかった。その日、彼の母親が僕たちを家に招いてくれた。しかしそこで目にしたことに対しては、まだ誰も準備ができていなかった。僕は彼の母親の隣へ行ってこう言った。「彼を病院に戻した方がいいですよ」と。すると彼女は「私は約束したの。去年そうしたように、あの子の誕生日を病院では過ごさせないって。だからこうしているのよ」と答えた。いま振り返ってみれば、ディラが最後の日々を家で過ごせるように、病院は彼を退院させてくれていたのだと思う。
最後の数ヶ月間、ディラの母親は他の誰よりも彼のためにそばにいた。彼との時間を過ごすためにデトロイトからLAへ移って、病院の部屋の折りたたみベッドで寝ていた。そこで目にした母から息子への愛情は、僕がそれまでに見たことのないほど熱烈なものだった。とうとうディラが亡くなったとき、皆の心配は母親へと向けられた。しかし彼女は僕たちの誰よりも、逆境に対する強さを見せてくれたのだ。彼の亡くなった日、彼の葬儀の日、そしてそれから何ヶ月経っても、彼女はディラの家族と友人たちをひとつにしてくれる大きな支えだった。
本書の中ほどで、ジョーダンは多くの人々が疑問に思っているであろう問いを投げかける。「ディラが生きていたら、《Donuts》は名盤になっただろうか」という疑問だ。〈The Factory〉や〈Lightworks〉〈The Twister〉などは、純粋に楽曲として素晴らしい。しかしディラが対峙していた背景と共に聴くと、もっと強力な印象を帯びるだろう。これらの楽曲からは、ある種の不穏さや閉所恐怖を覚える。だがそれは迫り来る死を前にして経験したカオスや不安を共有するための、ディラなりの方法だったのかもしれない。そして〈Last Donut of the Night〉や〈Don't Cry〉は、それがディラの最後の日々だったのだと思うと露骨に感傷的に聞こえる。しかしこのアルバム制作を取り巻く事情を抜きにしても、僕にとってこれはストーンズ・スロウの歴史を決定づけた瞬間だったのだ。僕がそう感じているのには理由がある。なぜなら、僕は《Donuts》の初期のバージョンを聴いたときのフィーリングを覚えているからだ。それは彼が再び病気になる一年前のことだった。それは彼が病院に戻る前のことだった。そしてそれは、完成版のリリースの3日後に、世界が彼を失う前のことだった。僕は決して忘れない。2005年、まだ比較的健康だったディラと、車で最初にこのCDのラフバージョンをプレイしたときに起こったことを。
多くの人々は彼が亡くなってから初めて《Donuts》を聴いたのだということに僕は気付いた。つまり、彼らはこのアルバムを取り巻く事情を考えることなしに、これを聴くことはできないのだと気付いたのだ。そして僕も、2006年の2月にこのアルバムが再び僕に与えてくれたフィーリングを覚えている。彼が亡くなってから1週間後、僕はDJをするためにLAからサンフランシスコへ101号フリーウェイの海岸線を運転していた。元々リリースパーティになるはずだったそのイベントをキャンセルしようとしたのだが、彼の母親がやり通すよう言ってくれたので、その日は追悼イベントになったのだ。このアルバムは、ディラの生前と死後という正反対のコンテクストで聴くと全く異なるサウンドに聞こえた。だがどちらにせよ、僕や仲間たちにとって、このアルバムは芸術作品なのだ。それは公式のアルバムとなる前から、すでに名盤と言えるものだった。ディラ自身を含む誰もが、彼がもう一度病気になると分かるより前からすでにクラシックだったのだ。それは僕たちの間で話題になっていたし、歓迎され賞賛された。しかしそれが何であれ、もっと重要なのは、僕が《Donuts》を車で繰り返し聴き続けたことだ。そうすることがいつでも最良の試金石なのだ。ディラが最初に《Donuts》を僕にくれたとき、彼はそれが何なのかを説明しなかった。それは運転の最中に突然差し出され、僕の目の前に現れたのだ。
2015年3月
クリス〝ピーナッツ・バター・ウルフ〞マナック
Info