【Review】「歌」を「書く」ことについてー宇多田ヒカル、音楽、「目に見えないもの」/ John Gastro
φαίνω
--From Proto-Hellenic *pʰáňňō, from Proto-Indo-European *bʰn̥h₂ye-, from *bʰeh₂- (“to shine”).
古代ギリシャ語の「φαίνω」の起源は、原初ギリシャ語族の「pʰáňňō」、さらに遡ると原初インド=ヨーロッパ語族の「bʰn̥h₂ye-」、そしてもうこれ以上は遡れないという最後にたどり着いた言葉は、これまで目にしたことも無い、未来の「拡張子」のような、「bʰeh₂-」という文字列。意味はなんと「『ヒカル』こと」だという。なんということだろう。「亡霊」と「光」は目に見えないところで繋がっていたのだ。
結論を言うと、宇多田ヒカルの新作『Fantôme』は、「母の亡霊についての盤」である以上に、むしろ本質的には「彼女自身の目に見えないものへの想像力一般についての盤」なのだと思う。実際に、今作の楽曲では、これまで以上に至る所で「目に見えないもの」への想像力が描かれている。時にそれは「未来」や「過去」といった「時間」のイメージとして、また別の場面では「私」や「あなた」の「虚像」というイメージとして、またあるいは「愛しさ」や「後悔」といった「感情」のイメージとして。特に自分が優れていると感じた『Fantôme』の歌詞を、ここで一つ一つ列挙しようかとも思ったが、それは読んでくれているそれぞれの人に任せたいと思う。
それでも、あえて自分もひとつだけ挙げておくとすれば、やはり「道」の歌詞だろう
一人で歩まねばならぬ道でも/あなたの声が聞こえる
It’s a lonely road/You are every song/これは事実
[…]
どこへ続くかまだ分からぬ道でも/きっとそこにあなたがいる
It’s a lonely road/But I’m not alone/そんな気分
かつて、あるドイツの哲学者は「夜の中を歩み通すときに助けになるものは、橋でも翼でもなくて、友の足音だ」と語った。確かに、目に見える「人生の岐路に立つ標識は/在りゃ」しない。例えあったとしても、暗闇の中ではそうした「目に見える(現実的な)もの」など役に立たない。しかし、「友の足音」や「あなたの声」という「目に見えない(亡霊的な)もの」が、道を照らしてくれる「ヒカリ」になりうる。彼女のそうした目に見えないものへの想像力が、「But I’m not alone」という一文に凝縮されているように思う。そして「You are every song」と彼女が歌うように、こうした目に見えないものへの想像力こそ「歌」の本質なのだと自分も思う。人生の様々な場面で鼻歌のように音楽を思い出すように、音楽は時に、暗闇を歩くときに聞こえる「友の足音」、あるいは一人で歩まねばならぬ道で聞こえる「あなたの声」になりうるのだと思う。彼女は母の亡霊について歌っているのではなく、むしろ音楽そのものが持つ力について歌っている、そんなことすら思う。
もちろん、彼女はこれまでもずっと「音」の面においても素晴らしい楽曲を作ってきた。しかし、いつだって自分は彼女のこうした「歌詞/言葉」の力に感動させられてきた。今回の『Fantôme』でも、「言葉がいかに豊かで広がりのあるものか」思い知らされた。
冒頭で自分は「音楽は目に見えないことが素晴らしい」と言った。それに対して「言葉はそうではない」と。つまり、言葉はいつだって画一的で、断定的で、窮屈で、他の想像力の余地を残さない「音楽とはまるで逆のものだ」と。
しかし、それは間違っている。「言葉は目に見えないものをも語りうる」。実はそれこそが、言葉の持つ本当の可能性であり、音楽における言葉の力、つまり「歌詞」のもつ豊かさなのだろう。「歌」を「書く」ということは、まさにこうして「音」と「言葉」の両方から「目に見えないもの」を描こうとする営みのことだ。
ここまで見てきたことは、実は自分の音楽への向き合い方、そして今回このレビューを引き受けた理由とも繋がっている。
自分は宇多田ヒカルと同じ年に生まれ、彼女と同じように物心がついたころからずっと音楽を作ってきた。
しかし、自分は彼女と違って、書き上げた曲を「原則的に」一切発表せず、ただ「自分が聞くためだけ」に作ってきた。自分にとって音楽を作ることは仕事でもなければ、かといって趣味とも少し違う、例えるなら「日記を書く」ような、生活の一部でずっとあり続けてきた。
だから「musician」という言葉がずっと苦手だった。「artist」はもっと違和感がある。「恥ずかしい」というより、なんとなく「しっくりこない」と言った方が適切かもしれない。こんな調子だから、例えばプロフィールを書く時(そんな機会はそもそもあまりないのだが)「音楽を作る人間」であるという自分の属性を説明するにあたって、いったいどんな言葉が適切なのかずっとわからずにいた。
けれど自分はある時期から、プロフィールが求められる場面で、こうした「musician」や「artist」といった言葉の代わりに、必ず「songwriter」という言葉を使うと決めてきた。「歌(song)」を「書く(write)」ということをいつも忘れないようにしたいと思ったからだ。
正直に言うと、昔からこの「songwriter」という言葉が自分にとって「しっくりきていた」わけではない。むしろ、ある時期は一番苦手な言葉ですらあった。10代後半から20代の中盤あたりだろうか。その頃の自分は「song(歌)」よりも「music(音楽)」という言葉の方を好んでいた。当時は、今と全く違う音楽をしていて、どちらかというと「エクスペリメンタル」で「インストゥルメンタル」な楽曲ばかり作っていた。その頃の自分は「歌詞を書いて歌うこと」自体をどこか「クールでないもの」だと思っていた。「歌も言葉も音楽とは本質的に関係のないことだ。音楽とは純粋に音そのものの美しさを追求するものだ」などと思っていたように思う。
けれどその後、音楽を作ること自体を一度辞めてしまった時期があった。当時作った「エクスペリメンタル」で「インストゥルメンタル」な曲は、ほとんど聞き返すことすらなくなっていった。それでもしばらく経って、ふと聞き返す音楽があった。それは、遥か昔の自分が物心がついた頃、つまり音楽を作りはじめた頃にギターを弾きながら「書いた」ような、それこそ全くクールではない、「歌」の方だった。同時にそのとき思い出したことがある。そもそも自分は「歌」に心を動かされて音楽を好きになったのだ。自分はずっと「歌」に救われてきた。その格好悪くて、全くクールでない、だけどまっすぐな事実を、その時ようやく素直に認めることができた。
将来どれだけ高音質で可搬性の高いメディアが開発されたとしても、あるいは半永久的にデータが記録できる拡張子が生まれても、結局どんなものよりも遠くへいけるのは「歌」であり「言葉」なのだと思う。John CageもSteve Reichも鼻歌では歌えない。でも"First Love"は鼻歌で歌える。変な話だけれど、結局、鼻歌こそが最も完成された「拡張子」なのかもしれない。今はなんとなくそんなことを考えている。
未熟で格好悪い自分と違って、宇多田ヒカルはシーンに登場したその瞬間から、この「歌を書く」という「王道」を一度も揺らぐことなくずっと「引き受け続けてきた」作家である。このことこそが、彼女を心から尊敬している理由のひとつだ。
だからこそ、『Fantôme』は彼女の書いた言葉を読みながら、時に鼻歌を口ずさみながら聞くのが一番良いと思う。そして―これまでの彼女の歌がずっとそうだったように―目に見えない形でたくさんの人たちの記憶に残り続け、いつかCDやレコードというものがこの世から姿を消し、さらに拡張子のついたデータすら消えてしまった遠い遠い未来においても、誰かの鼻歌として奏でられ続けてほしい。ちょうど、「fantôme」という言葉が、何千年の時を超えて、目に見えない意味を運んできたように。
この先、自分が彼女の楽曲群のような素晴らしい「歌」を「書ける」と思わないけれど、せめて自分も遠回りをしてようやく気づいた「歌を書く」というまっすぐな部分だけは忘れないように、これからも「songwriter」という言葉を使い続けたい。そうした勇気を、やっぱりまた宇多田ヒカルという作家からもらった気がした。だからこうして「言葉」で音楽について書くという、昔の自分なら絶対にしたがらないこともしてみようと思った。けれどもやっぱり、うまく「言葉」を使えたという気はしないのだけれど。
最後に彼女に向けて一言だけ。歌を書こうとする同世代の「songwriter」の一人として、両手いっぱいの花束とともに、貴女の帰還を心からお祝いしています。
2016年10月 東京・渋谷
(了)
<Release Info>
宇多田ヒカル - 『Fantôme』
John Gastro
songwriter