【インタビュー】DJ Bowlcut | アジアにダンスミュージックのコミュニティーを作る
もはや韓国だけではなくアジアのダンスミュージックシーンに欠かせない存在となったSeoul Community Radio。その主要メンバーとして地元・韓国のDJコミュニティーと海外のDJたちの橋渡し的なポジションを担っているのがDJ Bowlcutだ。
Beastie BoysをきっかけにDJ ShadowやMassive Attackなどからトリップホップを経由し、ハウスやテクノにたどり着いた彼は、1986年生まれ特有のジャンルを横断した音楽との出会いを繰り返しながらも自身の芯となるものを育てていった。
自身でDJはもちろんのことプロデューサーとしても活動する彼のメインにあるのは、韓国ひいてはアジアのダンスミュージックコミュニティーを形成するという強い意志だ。自身が所属するコミュニティーの課題を明快に認識しつつも、Seoul Community Radioなどの活動を通じて、シーンの成長に貢献する若き賢人のキャリアを、 1986年生まれの面々によるパーティー『86BABIES』のソウルでの開催を機に振り返る。
取材 : 松原裕海・和田哲郎
構成 : 和田哲郎
撮影 : 寺沢美遊
(このインタビューの一部は昨年刊行されたSTUDIO VOICEのアジア音楽特集に掲載されています)
- ではまず最初に、どうやってDJを始めたの?
DJ Bowlcut - 僕がDJを始めたのは12歳の時だね。家族がMTVに加入していて、Beastie boysのミュージックビデオを見たんだ。"Jimmy James”っていう曲だ。スクラッチの多い曲で、その音に衝撃を受けた。まだMix Master Mikeが入る前でDJ Hurricaneがやっていた時だよ。もっとDJの音楽を聞きたいって思って、ローカルのレコードショップに行って、店長に「DJのリリースしている曲を教えてくれ」って言ったんだ。彼が渡してきたのはDJ ShadowとMsssive Attackだったけど「これは俺が期待していたものとは違う」って聴いた時に思ったよ。あまりにもチルすぎたんだ。期待と違ったんだけど、でもだんだんとそれにのめり込んでいった。そこからトリップホップをディグしはじめたね。テレビで『Channel V』も見れたから、Chemical BrothersとかJohn Digweedとかのミュージックビデオを見れた。
- Channel Vというのは?
DJ Bowlcut - Channel Vは香港の音楽専門のTV局で、クラブミュージックだけを流す決まった時間が当時あったんだよ。 DJ ShadowやPortisheadのミュージックビデオとか、他のジャンルのミュージックビデオも放送していてものすごく影響を受けたね。お母さんに「僕、DJになりたいからターンテーブルを買ってほしい」って言ったんだ(笑)。当時、ナイトクラブでプレイしていた韓国のDJはターンテーブルをやめてCDJに移り変わり始めていた。だから当時ターンテーブルが安く買えたんだよね。14歳の時は、ミキサーとターンテーブルがあればDJ Shadowみたいな曲を作れるって思ってたんだけど、その2つはただのプレーヤーだからね。曲を作り出すことはできなかった。それからインターネットで調べて、この機械で何が可能なのか調べ始めたら、ターンテーブリズムを知った。「なるほどこうやってMassive AttackやDJ Shadowは音楽を作ってるんだ」と理解できた。そこから練習を始めたのがDJを始めたきっかけだね。その時俺はハウスとテクノにハマって、レコードを集めはじめたんだけど韓国ではなかなか見つからなくて。レコードストアに行って「テクノとハウスないの?」って聞いても、「そんな音楽はないよ」って言われた。「じゃあ、似たような音楽なにかある?」って聞いて、手当たり次第レコードを手に入れた。大体はゴミみたいなレコードだったけど面白かった。まだそれで何をすればいいか分からなかったから、どんな音楽にも良いパートと、悪いパートがあるって考えるようにしたんだ。で、そのパートをカッティングしていく作業をしていたらターンテーブリストになっていた。ヒップホップDJとしてキャリアを始めたわけではないんだよ。そんな知識なかったからね。ただ色んな音楽をスクラッチとかカッティングしていたんだ。ジャズだったりファンクだったり、韓国のポップスとかも使って色々実験を続けたよ。16歳の時にシンガポールに旅行に行ったときに、さらにハウスとテクノにのめり込んだ。お父さんに頼んでCD屋に連れて行ってもらったら、Pete Tongの確か『ESSENTIAL SELECTION』が流れてた。「こういう音楽がほしい」って聞いたら、大量にMasters At WorkとかDJ Sneakとかの曲を教えてくれて、そこから始まったんだ。
- クラブでプレイするようになったのはいつから?
DJ Bowlcut - クラブではヒップホップのMCに頼まれてやったんだ。最初はスクラッチセッションをやってくれって頼まれた。僕が17か18歳ぐらいの頃かな。最初にバトルでDJしたのが16歳ぐらいで、それから韓国のヒップホップシーンで認知され始めて、スクラッチセッションを頼まれるようになった。あと、ライブのバックDJも頼まれてた。でもそのときやってたのはライヴハウスって感じでナイトクラブではなかった。ちゃんとDJとして回し始めたのは19のときだ。
- その時はヒップホップDJとして?
DJ Bowlcut - うーん違うね。CARGOというクラブがあって、そこでドラムンベースが盛んだったから大学生の頃よく行っていたんだ。たまにハウスも流れてた。そこでプレイさせてくれって頼み込んだら、1回やらせてくれたのが最初だった。当時少しハウスのレコードを集めてたからそれでやろうとしたけど、その時は全然上手じゃなくて、すごい失敗したよ(笑)
- 当時韓国にハウスやテクノのDJはいなかったの?
DJ Bowlcut - いたよ。ハウスやテクノをやる第1世代のDJはいて 、そのちょっと前の0.5世代みたいなのもいるはずなんだけど、悲しいことに彼らに関する情報が全然ないんだ。なんで存在してたのが分かるかっていうと、リサイクルショップや本屋の中古コーナーに80年代とかの古いレコードが売ってるよね、そこで興味深いレコードを見つけることがあるんだ。80年代にDJをやっていたと思われる人が売った、イタロハウスとかイタロ・ディスコとかがあったんだ。ラベルにはDJの名前を書いてあったから、たぶん過去にはそういうDJもいたってのが分かるんだけど、ただ誰も知らないんだ。みんないなくなっちゃって、アーカイブもない。韓国の音楽シーンは悲しいことに、何もアーカイブされてない時代がよくあるんだ。引退しているDJの第1世代の人たちもアーカイブするのがものすごく苦手で、その世代の人達は記録することはアンダーグランドミュージックの純粋さが失われてしまうと考えていたんだ、今は彼らも後悔していると思う。その人達に会って僕がちゃんとしたアーカイブを作りたいよ。存在した証拠が少なすぎるけど、でも確かに存在したんだからね。CARGOもそうだけど、もう一つPower Plant(?)というクラブがあった。韓国の1番最初のクラブだ。それ以前の80年代はレゲエバーだった。Power Plantはそれからどんどん関連店が増えていって、JOKER REDやMWGなどのクラブができた。
- 最初にDJしたといってた10代の時というのは何年?
DJ Bowlcut - ターンテーブルを最初に購入したのが2001年。それが自分のベッドルームでしかやってなかったティーンの頃で、その後DJバトルに顔をだすようになるよ。
- 最初のDJバトルについて聞いていい?
DJ Bowlcut - その時はスクラッチとか何も知らなかったからね。当時の韓国はDJコミュニティがなかったんだ。1個あったけどシークレットって感じで。だから買うべきDJミキサーなど全く分からなかった。僕は最初のDJバトルでバトルレコードやスクラッチレコードを見てショックを受けたよ。何も持ってなかったから「なんだよこれ」って感じだった(笑)。「みんななんでも持ってんじゃん」って(笑)。でも当時僕は自己流だけど韓国で最初のビートジャグラーだった。他のDJはビートジャグラーの方法を知らなかったから、まわりを驚かせることはできた。ビートジャグリングを自分で勉強したのは、「この方法でMassive Attackはトラックを作ってるんじゃないか?」って思ったから。Rob Swiftのモダンなスキルとかをビデオとかで観て学んだよ。あともうなくなったけど当時ウェブサイトがあって、A-trakのビデオなどを見て彼らのスタイルを真似し始めた。こう言うとヒップホップなスタイルっぽいけど、こうやって始めたんだ(笑)
- 当時はSilent Walkerっていう名義でやってたんだよね?
DJ Bowlcut - そうそう。俺のゲームIDがそれだった。韓国の第一世代のラッパーは自分のゲームのIDををそのままDJネームにしてる人がものすごく多かった。 StarcraftのIDが多かった(笑)
- いつ頃プレイスタイルを変えたの?
DJ Bowlcut - 正直、ヒップホップDJになりたいとは一度も思ったことがないよ。若い頃はDJ Premierとか好きだったけど、後々「これは俺がやりたいことじゃないな」って気づいた。自分はトリップホップがやりたいんだなって気づいたけど、自分の持っていたスキルはヒップホップDJ寄りだった。でも若い頃はFatboy Slimとかプレイしてたから、ようするに俺はヒップホップDJのスキルをビッグビートやハウス系の音楽で使ってたんだ。難しかったけど色々試してたよ。
- Bowlcutっていう名前に変わったのはいつ?
DJ Bowlcut - あー(笑) 長くなるよ。DJ Silent Walkerとして長い間認知されてたんだけど、俺はヒップホップDJとして扱われるのが嫌だったんだ。 俺にとってヒップホップDJは、とても短く大きなインパクトのある瞬間を作り続けることだ。それがあまり好きじゃなくて。もっと自分の好きな長いトランジションの音楽を作りたかった。だから名前を変えたほうがいいのかなって考えたんだ。前の名前のままだとヒップホップDJとして認識されたままで、ハウスやテクノのクラブにブッキングしてくれない。名前を変えるって決めて最初に思いついた名前がDJ J fitsだったんだけど、特に理由もなく。Lobster ThelminのJimmy Asquithがある日「君の音楽をリリースしたい」ってメッセージを送ってきた。でもひとつ条件があるって言われて、それが名前を変えることだったんだ。J Fitsっていう名前はJane Fitzを彷彿させるからってね。別にいいよって思って名前を変えることにして、当時面白いDJネームが流行っていたから面白い名前がいいなって思って、Bowlcutが浮かんだんだ。Bowlcutは超ステレオタイプな韓国の男の子の髪型のことだ。「どう?」って聞いたら「最高だ」って返ってきたよ。でも結局その曲はリリースされることはなかったんだけどね(笑)
- 最初のリリースはPodcastだけでしたもんね。
DJ Bowlcut - 最初はPodcastだけだ。なにかのために曲を作るのがプレッシャーがありすぎてストレスになっちゃいそうなんだ。変わりに、いろんなレーベルからラブコールをもらうことが度々あるから、作ったトラックをあげてるよ。いまだに自分の作るものに納得がいかないんだ。自分の音楽を共有するのが恥ずかしくてね。
- 最初にトラックを作り始めたときになんのソフトを使ってた?
DJ Bowlcut - FL studioを使ってた。2006年かな、まだ俺がヒップホップレーベルにいたとき、自分のミックステープを作ろうと思った。当時ミックステープをリリースしてる人が韓国であまりいなかったから、自分で作ってみるべきだなって考えたんだ。人々に俺はただのヒップホップDJではなくハウスDJでもあるということを示したかった。だからハウスのミックステープを作って、そこに数曲自分のトラックも入れてみようって思いついて、作り方を調べてたらFL Studioを見つけたよ。それよりも前に1曲だけトラックを作ったことがあるけど、それはちゃんとしたソフトとか使わずにレコーディング機能があるCool Editを使って作った。それが俺の初めてのDAWだ。素朴なトラックだったよ。あ、それよりも前にビートマニア風のコンピューターゲームBM98用に自分の曲を作れるBM CREATORっていうソフトがあって、それで作った曲が初めての作曲かもしれない(笑)。ビートマニアのパクりの音楽ゲームなんだけど、好きな曲と好きな譜面で自分のステージを作れるんだ。
- 家に行ったときにたくさん機材がありましたよね。
DJ Bowlcut - 大体安い機材だよ。ドラムマシーンを集める前は、ターンテーブル周りをもっとよくするためにSP404とかMPCとかを探してた。MPCとかは韓国でレアでね。ドラムマシーンはJeff Millsが909をプレイしているのを見て、これがほしい!ってなって、TR-8を買った。Octave Oneのライブも2003年頃にNHKかChannel Vで見て、なにをしてるのかを研究したよ。
- 日本では初めての機材は中古で買うことが多いんですよ。
DJ Bowlcut - 韓国でもそうだよ。最初は若すぎて韓国内のコミュニティについて分からなかったけど、17歳ぐらいになってDJコミュニティを見つけて。90年代後半にインターネットが普及して、みんなネットで音楽とか機材の情報を共有するようになったんだ。そのとき掲示板とかにいた人たちがK-POP業界や、ヒップホップシーンなどでいま大物になってる。日本の(DJコミュニティの)掲示板の内容を訳して俺らの掲示板に持ち込んだりしてたよ。近い国だからね。韓国の生徒がヨーロッパに留学して韓国に返ってきてから、向こうで見たもの知ったことを共有したりもしてた。アメリカに留学した生徒が色々、学んだことを教えてくれたりもした。それがものすごく大きな影響を持つんだ。ヨーロッパから帰ってきた子は、エレクトロミュージックという概念を韓国に広めた。アメリカからソウルに帰ってきた子達はヒップホップシーンを韓国で作り出し始めた。俺らは色々分析するんだ。韓国語でどうすれば韻が踏めるかとかインターネットで日々、大議論したよ。
- なにか話題を変えようかな。
DJ Bowlcut - そうだね。俺の幼少期はそんな重要じゃないと思う。今の俺のスタイルの原点ではあるけど、ユニークだからね。ヒップホップの技術を勉強してエレクトロをやろうとした人なんて見たことないよ。アメリカでですら、忘れ去られてる。今おれがやってることにフォーカスしたほうがいいかもね。
- 20代の頃にどうやってキャリアを作ったの?
DJ Bowlcut - ヒップホップレーベルにいたけど、あまり大したことはしなかった。ソウル、韓国のヒップホップDJの主な仕事はラッパーのトラックをプレイすることだからね。もっとクリエイティブなことがしたくても、MCはそういうことはやってほしくないからやらせてくれない。クリエティブなことをすると彼らが準備してきたことを邪魔しちゃうからね。この世界から出たほうがいいなって俺は思って、もうひとつやっていたターンテーブルのクルー、Premium Bananasでピュアなターンテーブルのプレイをだけやった。その後DJバトル、VESTAX EXTRAVAGANZA 2007に出た。韓国で勝って、東京の本大会にも出て3位だった。でも韓国に帰ってきた時に、もうこれはやりたくないって思った。日本のターンテーブリストの実力の高さにショックを受けた。いまだに驚くんだけど、日本のDJや音楽コミュニティは情報の共有が本当に活発だ。韓国も共有はするけど、議論のほうが多い。「俺が正しい」「誰が正しい」みたいな話になる。だから君たちがお互いの知っていることを交換したりしているのを見ると考えさせられる。ターンテーブリストとして俺は日本では勝てないって思い知らされた。日本だけじゃなくてヨーロッパだったりアメリカのどのDJともね。それで韓国に帰ってきてとても落ち込んじゃって。でも俺は同時にその時クラブでもDJしてた。第一世代のクラブで唯一残ってるところだ。まあ、とにかくそこで俺はレジデントDJで、その時レイヴ・カルチャーを持ち込んでくる多くの若いDJと出会った。イングランドから来るニューレイヴサウンドとかだよ、Klaxsonsとかね。そのニューレイヴクルーのメンバーの一人が、俺が18歳頃の時に所属していたコンピューターゲームのクルーにいた人で。Return to Castle of Wolfensteinっていうゲームだ。初期FPSでドイツ人やアメリカ人になれるやつだ(笑)。実は俺のDJネーム、Silent WalkerはこのゲームのIDでもあったんだ。それがきっかけで俺らは仲良くなって。いままで直接会ったことはなかったけど、お互いのゲームIDは知ってたからね。「あー!お前があのいつも炎投げてたやつか!」「あのキャラ使ってたよ」みたいに盛り上がった。そういうことがあって、俺はそのニューレイヴのクルーに加入した。ドセイドスっていう韓国最初のニューレイヴクルーだ。いろいろアメイジングなことをしたよ。クラブは100人ぐらいのキャパなんだけどそこに500人もの人が集まった。UKとかからレコードをもらうようにもなって。そしたらオールドスクールのヒップホップDJたちが俺を裏切り者だと思って嫌い始めたんだ。その頃は辛い時期だった。時計じかけのオレンジみたいな格好を俺はしてたんだけど、化粧して、デヴィッドボウイみたいな。スカートとかはいて、いまとは大違いだ。その後ロックスミスというレーベルに入って、日本のアーティストと一緒にやるようになった。80kidzとかfree TEMPOとか。大沢伸一ともいい友達だったよ。当時渋谷系は韓国でとても有名だった。すべてを支配してた。実際当時プロデュースされた韓国のハウスの一部はただの渋谷系のコピーだったよ。Pizzicato FiveとかDaishi Danceとか。BIGBANGがDaishi Danceの音楽をコピーしようとして、まあ実際にコピーなんだけど。糾弾された時に、ライセンス得てるって言ってたけどほんとは、先にコピーしてDaishi Danceが後から使用料を請求したんだ。全部知ってるよ(笑)俺のレーベルがマドモアゼル・ユリアとかDEXPISTOLSを韓国に招いてたよ。とにかく彼らを韓国につれてきて、パーティー開いてとやってたけど、でも結局俺のいたレーベルは破産しちゃったんだけどね。オーナーがお金を全部使ってどっか消えちゃったよ。Boys noizeとかBusy Pとか海外のアーティストを呼ぶのにお金を使いすぎて。俺にとってはそういう人に会えたことは良いチャンスだったけどね。Kanye Westは食べ物の好みがうるさくて運転手にライブ後にフライドチキンを持ってこさせたりしてたよ。
2005、2006年ごろにみんなニューレイヴを聴き始めるようになったんだけど、たぶんそのあとEDMに進むか90'sのレトロなハウスかテクノに進むか大きな2つの分岐点があった。俺はハウスに来たけど、一緒にやってた多くのDJはEDMに行ったよ。俺らはそこでバラバラになったんだ。俺はアンダーグラウンドのシーンにとどまった。人をクレイジーにさせる音楽よりグッドミュージックを聴き続けた。まあ、DJは人をクレイジーにさせなきゃいけないんだろうけど、EDM的なクレイジーじゃなくてねバイブスが違うんだ(笑)。でもたぶん2005,2006年の頃はこの2つのジャンルも一緒だったんだよね。俺の音楽に対するビジョンを共有できるほかのDJを探したけど見つからなかったよ。だから俺は28歳くらいの時に音楽を一旦やめた。するとある日一人の女の子が来て、「音楽の作り方を教えて」って頼まれたんだ。「スクラッチは教えられるけど、作曲はうまくないし誰にも教えられないよ」って断ったんだけど、その子は頼み続けるから、俺の知っている作曲術をその子に教え始めた。するとだんだん生徒が増え始めて、そこで「この全員を良いDJにしよう」って思いついた。俺と同じビジョンを持つDJに。その子たちがいまCake ShopやFaustやContra、Pistillなどを動かしてる。そうやって始まったんだ。きっと。その後Seoul Community Radioから連絡をもらって、協力してほしいって頼まれた。韓国語を喋れないから手助けしてって、リッチーにアンバサダー的な役割を頼まれた。SCRのコミュニティと韓国のDJのコミュニティのね。そうやって次第に俺は重要な役柄になって、色々なことの決断をしたり、Seoul Community Radio(SCR)のテイストだったり...。でも何が効果的かも考えなければならなくなったから、アンダーグラウンドミュージックだけにフォーカスしているわけにはいかなくなった。SCRをもっと良い場所にしたい。ただ音楽の一つの側面をキューレーションするだけじゃなくてね。むずかしいよ。今の俺はそんな感じだ。
- SCRに入ったのはいつ?
DJ Bowlcut - マイク・シンがSCRで働くのをやめたときだ。彼がメインのディレクターで俺はただ手助けしてただけなんだけど。彼がやめるって決めたから俺がそのポジシションについて。それが最初だ。1年後にね。
- SCRをやっていて一番のモチベーションになることはなんですか?
DJ Bowlcut - アーカイブを作ることだね、あと前は海外の好きなDJが韓国に来たら、ただ遊びに行くだけだったけど、今はSCRに出てもらってこういう人がいるっていうのを知ってもらえることができるね。さらに韓国のDJが海外に出て行ったときに、SCRのアーカイブがあることで、どんなDJか分かることができるよね。SCRを通して韓国のDJを広めることができるんだ。
- SCRが始まる前とあとで韓国のダンスミュージックシーンにはどんな変化があったと思いますか?
DJ Bowlcut - 大きな変化があったよ。SCRができる前は韓国のDJは、現場にくるお客さんに対して踊らせて、ただ楽しませるって気持ちでやってたと思うんだ。SCRができたあとは、もっと自分の音楽をみせようとか、自分のアーティスト性を作るっていう一段階上のところにいけたと思う。
- SCRにはたくさんのクルーがいて、いまじゃソウルのダンスミュージックシーンで一番大きいクルーだと思っているんだけど、どういう過程で大きくなってソウルの人々は知っていったの?
DJ Bowlcut - 良い質問だね。俺とリチャードが当時共有してたビジョンがあって。俺ら二人は共通して興味を持っていることがたくさんある。俺と近いアイディアを持つ人に初めて出会った。思い返してみると、韓国の音楽シーンはうまくオーガナイズされてなくて。さっき言ったアーカイブされてない話とかね。それが一つの重要な点で、2つ目はエージェンシーが無いこと。3つ目は韓国の中の才能を世界に発信する力の欠如だ。アジアのパーティーやDJは、アメリカやヨーロッパからアーティストを呼ぶことで機能してるんだけど、たしかにコラボレーションすることはクールだけど、俺は韓国のローカルなアーティストをもっと外の世界に発信したかった。そこに焦点を当てたかった。そういう着眼点が一緒だったんだ。俺とリッチーは韓国のアンダーグラウンドシーンの大ファンで、いつも「もっと大きな世界がこのDJたちを見るべきだ」って考えてる。そしてDJたち彼らにも、もっと外の世界には色々あることを知ってほしい。彼らはもっと外の世界で起こっていることを知らなきゃいけない。韓国の多くのDJは、韓国を離れて別の国に行ったら、彼らの音楽キャリアが良いものになると考えているんだけど、そんなことはないし、そういう考えが嫌いだ。若くしてDJを始めた俺は、90年代の頃ヨーロッパや海外に行ってレコードを出したりチャート入りした韓国のDJを見てきたけど、それは何も成し遂げたことにならない。結局韓国に戻ってきてK-POPを作ってる。K-POPのクオリティがあがるのはいいことなのかもしれないけど。それはただのポップミュージックだ。俺らが好きなエッセンスではない。自分たちが向上できるわけではない。なんで韓国ではヨーロッパみたいになれないんだろうっていつも考えてる。アーティストにもっとフォーカスして、コミュニティの中でどういう風に進出して行くかとか、外国でどうやってやっていくかっていうノウハウやスキルをコミュニティの中で共有して、拡張するようなことをやっていかなきゃいけないと思う。僕たちがやらなきゃいけないと思うことは、DJはプレイして曲を選ぶだけではなくてどうすればいいDJになれるのかとか、どうすれば良いのかをもっと広めて行くことをやらなきゃいけないと感じている。
- 日本も同じ状況だと思う。
DJ Bowlcut - そんなことはない。俺からしたら日本は偉大なアーティストがたくさんいるし、Technics、ローランド、BOSSは全部ここから始まってるし大きな武器だ。韓国と日本は別のゲームみたいなものだ、ルールは似てるかもしれないけど、全く別のマップで行われているようなものだって思う。他の国々でもこういうのは多いと思う。タイと中国とか、ヨーロッパとか、ルールは同じなのかもしれないけど。別のマップ、別の世界でおこなわれているから、経験できることが違う。それが俺たちそれぞれの独特さに繋がるんだろうけど。でも日本の音楽の持つ歴史、アーカイブがほんとに俺は好きで。音楽だけじゃなくて文化そのものもだね。例えば浮世絵が与えた影響とか。韓国にはそれがない。韓国だとアーカイブを作っても批判する人が多くてね。プレッシャーが多いんだ、でもI Don’t Give a fuckだね。そんなの気にしてたらアーカイブを作ること自体が無理だよ。ちょっとデリケートな話になるけど、韓国が昔日本の植民地だった時に、帝国主義者が韓国の文化を無くしたって多くの韓国人は考えているんだけど、実はその前から韓国の文化なんてほとんどなかった。韓国の残してきたものはなんだろうって思い返した時、そんなに思いつくものはない。韓国のいいところは空っぽなところだ。何をしてもいい。人が韓国に求めていること関係なく。それは良い点だ。日本の良いところは、歴史があって人々は良いビジョンを持っていて、あと過去にたくさんお手本となる人がいることだ。ケン・イシイがいるし、それより前にはYMOがいるし。俺たちはそこからたくさん学んだ。MUROさんも世界にとって重要な人物だ。とにかくマップが違うんだ。
DJ Bowlcut - インタビュー長すぎるかな。ちょっと喋りすぎた。自分のことを思い返すと、これまでの人生いろいろな出来事がありすぎて。たぶんそれで長くなっちゃうんだよね。ベストなヒップホップクルーに所属して、それをやめて、ベストなレイヴクルーに入ってっていう経験はなかなかできることじゃない。それらを通して感じたのは、最初の世代のDJのドセイドスとかも記録が残っていない。ドセイドスのパーティーが終わるたびに、オーガナイザーは「俺らはトゥルーパンクだからなにも記録を残すことを許さない。ピュアでいたい」って言ってすべての記録を消し去った。写真が数枚残ってるだけだ。トゥルーパンクだってね。
- ソウルでプロモーターを始めたのはいつ頃から?
DJ Bowlcut - いまでも自分のことをプロモーターだとは思ってないよ。
- 海外のアーティストを招聘したりしてるよね?
DJ Bowlcut - 逆だよ(笑)向こうから俺に先に連絡がくる。「あーどうしよう」ってなる。まだ色々学んでる最中だ。ソウルジャズアカデミーやSCRでの仕事もあるしこれを続けられるかもわからない。プロモーターとして働き始めたらとても大変だけど、どっちみち今は似たようなことをやっていて。ちょっとづつ慣れてきてる。ダンスミュージックや経済がどのように動いてるかいい勉強だしいい経験になってる。それまで何も知らなかったからね。自分に価値をつけろって周りの人に言うようにしてる。「海外のDJはあれだけお金をもらっているのに〜」って言うDJがいるけど、そういう人にはもっと自分に価値をつけろって言ってる。何かを作ったり何かを成し遂げたり何かをのこせば価値になる。「君には何もないだろ?だから安いんだよ」って。でも俺自身、実際にどうやったら価値がつけられるのかわからなかった。でもプロモーションの仕事を通して、やっと「あぁ、こういう仕組みになっているんだ」って学べた。こうやって得た経験をいまソウルコミュニティラジオに適用しようとしてて、それで韓国のアーティストを韓国の外に発信したりしてて。良い経験だったと思う。どこまでいけるか試してみたい。ただ、自分もDJであることも忘れないようにしないとね。アジアにはDJ兼エージェントの人が多い気がする。プロモーターでありながらDJだったりね。一方ヨーロッパではエージェントがいて、プロモーターがいて、そしてDJがいる。これがアジアの課題だと思う。まあヨーロッパでも兼業でやってる人はまだまだいるけど。いいプロモーターになる方法とかシステムをアジアのレベルで作っていかないといけない。
- 今のCakeshopやContra周辺のローカルシーンに対して思っている希望や期待は?
DJ Bowlcut - ひとつ強い思いがある。ひとつのパイをみんなで分割するんじゃなくて、パイ自体を大きくしていくという意識を持ってほしい。だから俺は教育に焦点を当てた。人々にまず知ってもらいたいから。フランスとかでは10代の頃からパーティーなどを開き始める。韓国や日本の10代は大学受験などで必死だ。俺もそうだった。卒業する前とか俺はすごい良い生徒だったよ(笑)だから俺らにはこのカルチャーに応ずるチャンスがない。まず理解することが大事で、あと俺らには俺らの特徴があること知ってほしい。良い面も悪い面も。ヨーロッパではレイヴする人は音楽に興味ないって言われがちだ。「韓国や日本のオーディエンスは音楽としてレイヴに興味を持っていてすばらしい」って言われることがある。びっくりしたよ。これはもっと育てていくべき感覚だなって思った。韓国のDJでいるだけでじゃなくて、自分をハウス・テクノのファミリーの一員だと思いたい。そのために友達になにができるか。例えば、カレーを食べるのが好きな集団がいるとして、100人ぐらいのカレー好きな人がいるとして。ある日「毎日俺らカレー食ってるけど、試しにキムチ混ぜてみない?」って俺が言い出すみたいな。それがいいアイディアかどうかはわからないけど、新しい経験になる。それがおれのしたいことなんだ。それの延長線上で考えて、アジア、特に中国でみた光景なんだけど、アンダーグラウンドミュージックをやろうとしてる人たちがオリエンタリズムを取り入れるんだ。アジアでよくあるんだけど、韓国の歌手を入れたり、日本の三味線いれたり、中国の楽器いれたり。そういう風に考えなくてもいいんじゃないかなって思う。もっとそういうオリエンタルな表現じゃないアジアからのものを見ていきたい。今はYouTubeなどのメディアで外国で何が起こっているかすぐにわかるよね。そうやって自国だけじゃなくて全世界の影響を受けることができるよね。そうやって様々なものから影響を吸収して、再解釈して出てきたものが自分の音楽だと思うんだ。それで自分が出したものが、周りのコミュニティーに影響を与えることで、コミュニティーの音楽にも変化があると思う。国とかではなく1人、1人がフィルターとなって個人間で影響を与え合うべきだよ。アジアっぽいものをやるというのではなくて、もっとちゃんと自分の周りにいる人たちが何をやっているかに気を払うべきだと思う。