FNMNL (フェノメナル)

【インタビュー】本根誠 Sell Our Music | good friends, hard times Vol.9

ライターの二木信が、この困難な時代(Hard Times)をたくましく、しなやかに生きる人物や友人たち(Good Friends)を紹介していく連載「good friends, hard times」。国内のヒップホップに軸足を置きながら執筆活動をつづけてきた二木が、主にその世界と、そこに近接する領域で躍動する人たちへの取材をつうじて音楽のいまと、いまの時代をサヴァイヴするヒントを探ります。QeticからFNMNLにお引越しして来てからの第1回目(通算9回目)に登場するのは、長年、音楽の世界でディレクター/ライター/バイヤーとして活躍してきた本根誠

私が本根誠さんに最初に会ったのは、宇川直宏さんが主宰するライヴストリーミングスタジオ/チャンネル「DOMMUNE」でおこなわれたD.Lさん(Dev Large)の追悼番組『病める無限のD.Lの世界』の収録現場だったと記憶している。2015年の初夏のことだ。90年代に間近でみたBUDDHA BRANDの楽曲制作(“人間発電所”)についての理路整然とした語り口、また彼らの音楽への的確かつ鋭い批評にトークの司会をしながらウンウンと唸らされた。そのうえ情熱的でキラキラした方だなというのが第一印象で、いつか腰を据えて話を聞きたいとぼんやりと考えたのだった。「この方に話を聞いたら相当面白いに違いない」と思ったわけだ。この記事はそんなアイディアを思いついてから9年越しに実現している。

1961年東京都大田区生まれの本根さんは、1994年から2006年までavexのcutting edgeというレーベルでディレクターを務めていた。そこで、BUDDHA BRANDをはじめ、ECD、YOU THE ROCK★、Kダブシャイン、キミドリ、SHAKKAZOMBIE、東京スカパラダイスオーケストラといったアーティストやグループを担当している。詳細や時代背景はインタヴュー本文に譲るが、氏は80年代後半に六本木WAVEのバイヤーとしてキャリアをスタートし、DJや音楽雑誌のライターを経て、制作の現場に足を踏み入れている。

私のわずかな経験から言っても、国内のヒップホップ/音楽の世界は魑魅魍魎が跋扈する魔窟的な側面がおおいにある。そうした一筋縄ではいかない世界をくぐり抜けてきた経験がそうさせるのか、本根さんは、クレイジーさ、ファニーさ、ハードさが入りまじった独特のムードを漂わせている。鋭い目つきと、ふとみせる柔らかい表情の往復運動のなかに、ここで語られる山あり谷ありの氏の音楽人生がうかがえる気がするのだ。ECDやスカパラとの制作、『Bass Patrol!』シリーズのヒットやシーナ&ザ・ロケッツのマネジメント時代の話。本根さんのなかではブルースからヒップホップまでが一本の線でつながる。そして、この記事の目的は、単なる懐古ではなく、先達の豊かな経験と知識の共有にある。

取材中、「商売だから勝ち負けじゃないですか」と言ったときの本根さんの清々しさは、私がこれまで音楽にまつわる会話や議論のなかで体感したことのない種類のものだった。その字面だけみれば、そりゃそうだろと思われるだろうが、こんなふうに清々しく「良い音楽だから売りたい!」と言える人がいるのかと、その場で密かにひとしきり感動した。その精神は、マーケティングやニーズとは異なる価値基準から来たものだ。音楽に対する知識と愛情は前提で、基準は己のなかにある。だからこそキレイゴトばかりではないし、失敗もある。過去の忸怩たる思いも語ってくれた。記事のタイトルを「Sell Our Music」とした意図を賢明な読者の方々であれば、理解してくれるはずだ。本根誠さんの約2万字のロング・インタヴューをお送りします。

取材・構成 : 二木信

撮影 : 船津晃一朗

取材協力 : QUATTRO LABO

音楽で自由に踊るのが好きだった

- 現在のお仕事から教えてもらえますか。

本根 -  2023年からavexに復活して、旧譜を掘り起こして、ここ数年で身につけたアナログ製造と営業のスキルをもとにavex音源のアナログ化を行っています。今年が初年度で、なんとか売上の目標を達成しましたので引き続き頑張ろうと。また、BIG UP!というavexのデジタル・ディストリビューションの営業をしたり、ディレクター業務をしたり。久々にレコーディングの仕事も前向きにやって行きたいと考えていますし、旧譜の掘り起こしと同時に新しいことに挑戦したいなと。ざっくり言うとそんな感じです。

- 本根さんはロックンロールやリズム&ブルースはもちろん、ヒップホップやハウスにも造詣が深く、現在も音楽の仕事に携わっておられます。その幹となる最初の音楽との出会いとはどんなものでしたか。

本根 - 普通にビートルズ少年でしたね。それからニュー・ウェイヴとかパンクを好きになって、一日の時間を費やすことのメインはレコードを聴くことになった。中学生ぐらいのときからものすごいレコードが好きになって。高校のときはずーっと3年間、アルバイト代を全部レコードに費やすような少年でした。ニュー・ウェイヴの雑誌はひととおり読んでいました。『FOOL'S MATE』とか『rock magazine』とか。流行っていたものがニュー・ウェイヴとかパンクだったから、Gang of FourとかTalking Headsとか、そういうものを聴くじゃないですか。で、自然にロックと思って聴くとダンス・ミュージックだったり、ダンス・ミュージックかなって思って聴くとロックのアーティストだったり。そういうのに気づいて楽しみはじめる。

- はい。

本根 - で、そういうアーティストのインタヴューを読むと、とうぜんモータウンやフィリー・ソウルの話が出てくるでしょ。でも当時、ニュー・ウェイヴやパンクを聴いている身からすれば、モータウン・サウンドってポップなものという偏見があって。ところが、The Supremesとかモータウンの音楽を聴くとやっぱり良いじゃないですか。また、Daryl Hall & John Oatesも調べていくと、ふたりはフィリー・ソウルのレーベルから曲を出しているし、もうすこしあとになると、The Style Councilのヒット曲“Shout To The Top”(1984年)も土台は思いっきりモータウンですよね。自分は、ソウルやリズム&ブルース、その影響が色濃いロックが好きかもしれないって。ロックを聴いているけど、「これはすげえグルーヴィーだな!」っていう音楽にひかれていくわけです。当たり前ですけど、ネットなんてないから、そういう感動の直感を自分なりに理屈で証明して理解したいとなると独学するしかない。The Beatlesの“Hey Jude”はソウル・バラードとは言えないけど、ロックっぽくもない。でも黒人音楽の影響があるでしょ。“Let It Be”に至っては、Paul McCartneyがAretha Franklinに書き下ろして、Arethaが最初は渋ったとされているけど、ポールのああした楽曲にはストレイトにブラックネスはないかもだけど、僕はニュー・ウェイヴ経由でR&Bに触れるようになって、ポールの珠玉の名曲に勝手にブラックネスを感じています。

- レコード以外で音楽が鳴る現場に出かけるとしたらどこでしたか?

本根 - 僕はディスコがとにかく大好きで。10代の終わりごろにディスコに行くようになるじゃないですか。深夜12時過ぎるとミーハーな人がワーッって帰って、ポップスのヒット曲がかからなくなる。そして、自分らより上の世代の人間が一列になって踊り出すわけ。そこでかかっている音楽がかっこよくて、「これは何だ?」って。人づてに聞くとやっぱりJames Brown、The Commodoresとかブラック・ミュージックだと。六本木のマニアックなディスコに行っていましたね。James Brownは1961年生まれの僕ら世代がディスコに行きはじめる70年代後半は、そんなにプロップスが高くない時期で、アナログもそんなに復刻されていない。でも、ディスコではかかる。それが新鮮だった。“Sex Machine”とか“Soul Power”が聴けたから、朝までずーっと踊っていられましたよ。

- ライヴはどうですか?

本根 - 僕らの時代はちょうどコンサート・ビジネスが確立された時代でしょ。だけど、僕はライヴが苦手なところもあって。なぜかと言うと、コンサート会場で同じ方向に向かって手を振ったりするのが大っ嫌いで。申し訳ないけど、いまでもそういうライヴにはあんまり行かない。なによりも音楽を自由に聴いて踊るのが好きなわけです。誰だって約束の時間に約束の場所に行くことが苦手だったりもするじゃないですか。それと同じすよ。

- 井上陽水も似たようなことをよく言っていましたね(笑)。コンサートをやるために約束の時間に約束の場所に行くことに矛盾を感じる、みたいな。

本根 - 僕の世代は、The Rolling Stonesに『Black And Blue』(1976年)っていうアルバムで出会う。“Fool to Cry”とかソウルフルなバッキング・ヴォーカルが入る “Memory Motel”とか、ああいうロック・バンドがやるスウィート・ソウルが好きで。しかもMick Jaggerの書く恋愛の歌詞っていまからすれば、すごく男尊女卑的でもあるでしょ。いまの時代では不適切とされてしまうような内容だったりもする。でも同時に、「パーティしようぜ! 遊ぼうぜ!」みたいな偉いことを言わない力強い歌詞が僕は好きで。イギリスの田舎の青年の心情と日常を描いているというかね。

- 町の兄(あん)ちゃん感ですかね?

本根 - そうです。町の兄ちゃんが張り切っている感じ。自分や子供のころからそばにいた友達、つまりイキった若者のことを歌ってくれている気がして。たとえば、僕は最近だったらJustin Bieber“Peaches”が大好きで。あの曲もすごくちゃらちゃらしていて、要は「俺は最高の女の子と楽しむぜ」っていうただそれだけの歌でしょう。Mick Jaggerの書く歌詞と同じで男尊女卑と言われてしまえば、そうなんですけど。ただ、若い子たちの聴くポップスの本質って昔からあんまり変わっていない部分もありますよね。

- それはいまのヒップホップやラップに当てはまる部分もありますね。

本根 - ロックやニュー・ウェイヴとブラック・ミュージックが混じっている音楽が好きで、さらに新しいものはないかなと探求しているときに、The Sugarhill GangやAfrika Bambaataaに出会い、『Wild Style』(1983年、日本公開)を観て衝撃を受けた世代じゃないですか、僕らは。そこで音楽を聴く感覚が変わる。パンクやニュー・ウェイヴのライヴって、みんな目がギラギラしていて、お互いぶつかり合ってときには血だらけになりながら、だけど楽しそうにしていた。でもヒップホップのメンタリティってちょっと違って見えたし、じっさい違ったじゃないですか。僕は、The Sugarhill GangやAfrika Bambaataaを最初に聴いたとき、「これは、Talking Headsじゃん!」って感じて。当時はわずかな情報と自分の感覚で推測したり、想像したりして、発見していくという過程ですよね。そうやってヒップホップが大好きになっていく。

六本木WAVEからcutting edgeへ

- 本根さんが六本木WAVE(1983年開店)で働きはじめるのが、いわゆる音楽の世界に足を踏み入れるきっかけですよね。

本根 - WAVEに入るのは1989年、28歳のときです。生きとし生けるものとして、仕事をしていれば当たったり外れたりするじゃないですか。そして、当たったときはやっぱり調子に乗りますよね。自分は20代のときにキヤノンのセールスマンをやっていたんですよ。最初の1年半ぐらいは芽が出なかったけど、コツを掴んだら、全国に1000人ぐらいいるセールスマンのうち4番目になって。そこで自信がつくじゃないですか。好きでもないOA機器を売ってこれだけできるならば、好きなものはもっと売れるに違いないって。勘違いも甚だしいんですけど(笑)。それで、当時の六本木WAVEの店長の増田さんという方に「僕を入れてくれないですか?」と頼み込んで最初はアシスタントで入れてもらったんです。

- 六本木WAVEの登場は当時、大きな文化的インパクトがあったと多くの人が口をそろえて振り返りますよね。

本根 - それまでレコードを買いに行くとなれば、ジャンルごとに分かれたあちこちの輸入盤店、中古盤店に電車に乗って出かけて行ったわけです。それがすごく楽しかった。たとえば、高田馬場のオーパス・ワンとか新宿レコード、CISCO、レゲエだったら吉祥寺のナッティ・ドレッドとか。あと、僕はピナコテカ・レコードのようなオルタナティヴ関連の音楽も好きで、そういうレコードは明大前にあったモダーンミュージックに買いに行って。そうした、いろんなレコード屋さんの感性をひとつのビルのなかに集めたのが六本木WAVEだった。1階から4階までレコード屋さんでしたから。そうやって全ジャンルを包括する資本力と文化的な力があったのがセゾングループだったんですね。

- WAVEについてはそこまで詳述されていませんが、いわゆるセゾン文化とは何だったのかを知るには、永江朗さんのルポルタージュ『セゾン文化は何を夢みた』(朝日新聞出版)はとても参考になりますし、面白かったです。WAVEではどんな仕事をされていましたか?

本根 - とうぜん最初はレジ打ちからはじめるわけですけど、徐々にいろんな仕事を任されるようになっていきます。六本木WAVEは1階が待ち合わせ場所になっていたんですよ。六本木はクラブやディスコの町じゃないですか。それで、ダンス・ミュージックのレコードを置いて売ろうという話になる。

- ああ、なるほど。遊びに行く人やDJがレコードを買うんじゃないかと。

本根 - そういう狙いがあったんでしょうね。僕は「本根、その担当をやってよ」って言われる側で、「はい、やります!」と。そういう担当を任されるのが嬉しかったですね。それでハウス・ミュージックの担当になった。Talking Headsもそうだし、The Velvet UndergroundやRamones、もちろんヒップホップもドゥーワップも好き。ニューヨークの音楽が大好きなわけです。それでLarry Levanを知って、「ああ、この音楽もニューヨークなんだな。で、Larry LevanのマブダチのFrankie Knucklesはシカゴでハウス・ミュージックを広めたのか」と。そうやってハウス・ミュージックのことをいろいろ知っていく。

- ちょっと先取りしてしまいますが、のちにavexのcutting edgeでNuyorican Soul『Nuyorican Soul』(1997年)やLouie Vega『ELEMENTS OF LIFE』(2003年)の日本盤を担当されることになりますね。

本根 - そうです。WAVE時代にすでに、Masters at WorkやTodd Terryといったニューヨークのハウスは普通に聴いていました。

- WAVEは本根さんにとってどんな時代でした?

本根 - 僕はWAVEに89年からたった1年4ヶ月しかいないんです。だけど、これまでの62年の人生のなかでものすごい大事なインパクトを残した1年4ヶ月でした。多くの人がそうだと思うけど、普通は朝起きて仕事に行くのなんてあんまり好きじゃないですよね。仕事は決まり事だから行くわけだし。でも、その1年4ヶ月のあいだは毎日がワクワクしていましたね。暮らしていて楽しい指標ができたというかね。

- 当時の六本木WAVEには音楽の世界でいまでも活躍されている個性豊かな方々がいらっしゃいましたよね。たとえば、DJ/プロデューサーでいえば、COMPUMAさんや井上薫さんなど。

本根 - WAVEは僕の恩人だらけです。エル・スール・レコードの原田尊志さん、三宿で、飲食店というかユース・カルチャーが集うスポットであるKong Tongを開いた福田達朗さん、LOS APSON?の山辺圭司さん。その1年4ヶ月、そういう人たちとずっといれたのは幸運でした。自分もDJをはじめたり、原田尊志さんに声をかけていただいて『Bad News』でクラブ・ミュージックについてのライターをやらせてもらったり。

- 『Bad News』は1989年に創刊された音楽雑誌で、初代編集長を務めたのが音楽評論家の藤田正さんでした。藤田さんは1996年に出た『東京ヒップホップ・ガイド』(太田出版)という国内のヒップホップ史を考えるさいの重要文献にも執筆者として関わっています。

本根 - 原田尊志さんは3階のワールド・ミュージックのコーナーで働いていらして。80年代なかばから後半ぐらいにワールド・ミュージックという概念で包括して、たとえばアフリカのナイジェリア、アジアのタイ、またはラテン・アメリカとか、世界各地域の音楽をひとつのフロアに並べるようになりますよね。それは世界的な流れで、原田さんはそういう世代の日本の代表格の方です。原田さんの担当された3階のコーナーにもそういう世界各地域の音楽がバシッとあってすごかったんです。いまでもすごい方です。当時そこまで親しくさせてもらっていたわけではないのに、ある日、その原田さんがわざわざ3階から僕のところにやって来たんです。で、唐突に「藤田さんが新しい雑誌(『Bad News』)を作ってクラブ・ミュージック系のライターを求めてるいからやらない?」って。「やりたいです!」ってもう即答ですよ。そしたら明くる日ぐらいに宮内健さんか関口泰正さんがいらして原稿依頼を受けまして。それから10年ぐらい経って、原田さんに、「その節はありがとうございました」とお礼を言うと、「お前、WAVEに来たころ、めちゃめちゃ目をギラギラさせて『やったるで!』みたいな気迫に満ちていて気持ち悪かったよ」みたいに言われましたね(笑)。

- ははははは。

本根 - 「俺はDJだし、ライターもやれるし、ハウス・ミュージックだぜ」みたいな立ち振る舞いで、イケイケな青年だったんでしょうね(笑)。

- 最高ですね(笑)。『Bad News』は本根さんにとってどういう雑誌でしたか? その編集方針や音楽の聴き方の提示の仕方ふくめて。遅れてきた世代の僕は古本屋で何冊か手に取ったり、『バッド・ニュース増刊 ヒップホップ・ベスト100』(1996年)というディスク・ガイドを10代のころに参考にしたり。そのディスク・ガイドでは本根さんも執筆されていますね。いまでも手元にあります。『Bad News』そのものは、当時のワールド・ミュージックの大きな波のなかで生まれた雑誌という印象が強いですが。

本根 - 最初は何もわかっていませんでしたね。ただ、のちのちディレクターになったり、マネージャーになったりしてわかったことは、あの雑誌ではライターさんたちは、対象のアーティストを褒めようが貶そうが話が逸れようが自由だったんですよ。それが他のメディアと違ったところかもしれない。それが来日アーティストのインタヴュー原稿だったとしてもそうでした。二木さんもいろんな媒体や編集者から原稿の注文を受けてきたからわかると思いますけど、自由っていちばん怖いじゃないですか。ドーンと大きなネタを渡されて、それをどう演出していくかはライター次第。それが『Bad News』の良さでもあり、怖さでもありましたね。

- 特に記憶に残っている取材とかありますか?

本根 - いろいろやりましたからね。でもやっぱり、生まれてはじめてやったインタヴュー仕事は忘れられません。しかも来日アーティストで、それがもう散々だった(笑)。新宿の高級ホテルのスイートルームにアーティストが待機して、マネージャーが「はい、次の人」って数10分区切りでライターを呼び出してやるような取材で。その日まさかの豪雨で電車が止まってしまって、おまけに緊張のあまりにお腹を壊して原宿駅で1本電車を乗り過ごして、新宿駅に着いてからは西新宿の高層ビル街まで雨が10センチぐらい溜まっている道をびしょびしょになりながら向かって。

- うわあああ。話を聞いているだけでこっちも冷や汗が出てくる体験ですね(笑)。

本根 - 携帯もない時代で、もう40分ぐらい遅刻しているわけです。到着すると、本人もスタッフもすっごい不機嫌で「早くやっちゃってくださいよ」みたいな最悪な空気。もうその時点で負けですよ。で、僕が放った最初の質問が「今回のアルバムのコンセプトは?」っていうくだらないもので(笑)。40分遅刻したびしょびしょのヤツにそんなことをいきなり言われて、相手も「ん~」みたいになっちゃって(笑)。その相手がKaryn Whiteでした。

- 普通に大物じゃないですか(笑)。Babyfaceのプロデュースでデビューして、Jam & Lewisのプロデュース曲“Romantic”がヒットしたポップス寄りのソウル/R&Bシンガーと説明すればいいでしょうか。

本根 - そうですね。当時のアメリカのブラック・ミュージックの芸能の世界の人ですよね。

- 逆にインタヴューでの良い思い出はありますか?

本根 - それがECDですね。石田さん(ECD)はFILE RECORDSで2枚アルバム(『ECD』と『Walk This Way』)を出しているじゃないですか。記憶が正しければ、僕が1994年にavexに入社して石田さんといっしょに制作をする前、FILE時代の石田さんに2回インタヴューをしているんですよね。そのときの印象が強くて。彼は僕の一個上だから音楽体験も似ていたのか、「すごく理解できる」って感じて。1994年に渋谷のCISCO坂で石田さんにばったり会って「いまavexでディレクターやってるんです。石田さん相談させてくださいよ」みたいに偉そうに言ったときが、僕の有頂天キャリアのハイライトで笑えるところです。音楽家に向かって道端で契約話ってバカの極みです(笑)。

- いやいやいや、僕が言うのもおこがましいですが、そうした蛮勇は本当に素敵だなと思います。六本木WAVEのあと、ヴァージン・メガストアにも一時在籍して、その後avexに入社しますが、なぜavexに?

本根 - 当時は輸入盤レコードショップのバイヤーのブームだったんですよ。「うちの新人なんですけど、次の作品を聴いてください」ってレコード会社の営業の人がレコ屋にサンプル盤を持ってきてくれる。自分はもう「俺の時代がやってきたぜ」くらい鼻高々になってしまってね(笑)。だけど、じっさいは安月給でひいこら言っているんですよ。そんなときに、avexをふくめて計三社からほぼ同時期に「ディレクターをやってみないか?」というオファーをいただいた。「レコード屋のバイヤーさんのセンスを制作に反映させたら面白いんじゃないの?」とレコード会社が考えたんですね。

- なるほど。そのときにavexを選んだ理由は何でしたか?

本根 - これはキレイゴトじゃなくて、お金ではありませんでしたね。そもそも自分がこういう仕事をしていてそんなに儲かるとは思っていない。いまに至るまでそうなんですけど、いろんな面白い人や素敵な人、出来事に恵まれて楽しくやれているからつづいている。それでも、商売だから勝つか負けるかじゃないですか。それで、自分が組んでストゥーピッドな環境になって、勝ち目があるのはavexだと思ったんですよ。

- 勝機を感じたと。

本根 - レコード会社から声がかかったときに、良いアーティストや作品を文章で褒めるんじゃなく、売上を立てることで褒めればいいんだって僕は考えたんです。というのも、二木さんを前にして言うのも失礼ですけど、音楽のライティングの仕事にネガティヴな気持ちになっているときでもあって。その時期、Soul II Soulをめぐる音楽メディアの評価に疑問を抱いたこともきっかけで。Soul II Soulのレゲエともファンクとも言えない「ドンッ! ドンッ! ドンッ!」っていう低音をクラブで聴くのは最高に気持ち良いじゃないですか。だけど、彼らのファースト『Club Classics: Vol. 1』(1989年)を評価しなかった音楽メディアがセカンド『Vol. II - 1990 - A New Decade』(1990年)が出たときに急に褒め出して。僕からすると、セカンドはファーストの焼き回しで、Soul II Soulを評価するのであれば、ドラマーの屋敷豪太さんがいたときのファーストから評価しないと嘘だと思った。この商売は好きなものだけを褒めるわけじゃないんだって幻滅もあって。でも、プロのDJだってただただ自分の好きな曲だけをかけるわけじゃないですよね。だから、いま考えれば20代の若者の幼稚な考え方ですけどね。

- でもおっしゃりたい意味はわかりますし、やはり美意識に嘘はつけなかったということですよねそういう譲れないものが人生の重要な決断に影響するという実感は僕もすごくありますので。

本根 - 僕は新しいことや仕事をはじめるとき、だいたい最初はウキウキで楽観的なんです。avexに入るときもそうでした。だけど、ディレクターになって、アーティストのCDや作品が売れないとき、アーティストとの契約を切るという辛い仕事もあることにあとで気がつく。それでどんどん辛い面を見ることになるんですけどね。

計算よりもアイディアに賭ける

- 本根さんは、avex内のcutting edge(1993年設立)というレーベルに所属されます。期待されていた仕事は何でしたか?

本根 - いまはavexの代表取締役CFOになってらっしゃる林真司さんという方がいまして、彼は自分の恩人であり盟友だと思っていますけど、彼に当時言われたことがあって。「小室哲哉さんは、ディスコで流行していたユーロビートをTRFというグループなどを通してお茶の前に届けることに成功してJポップのスターになった。本根さんにはディスコよりもっとアンダーグラウンドなクラブでかかっている音楽をポップ・マーケットに押し上げる仕事をしてほしい」と。そんな風に説得されて嬉しい気持ちになったのをおぼえています。

- それは、当時自分がやるべき仕事だと思えたということですか?

本根 - いまはもう時代が変わって、アンダーグラウンドやインディペンデントで活動したり人気があったりする人たちは、メジャー・レーベルとディールする方が珍しいじゃないですか。インディペンデントでやってチャートの1位まで行けることも証明されていますし。でも、90年代はハシゴをふたつ渡すみたいな発想があった。つまり、アンダーグラウンドのクラブでSoul II Soulが人気であれば、まずそのCDの日本盤を出して注目を集めて、その次に日本人のシンガーが歌うSoul II Soulの日本版のような作品を世に送り出す。そうやってハシゴをふたつかけて、アンダーグラウンドな音楽を世間に広めていくという発想です。

- 90年代のavexから出ている日本人アーティストのCDシングルの3、4曲目とかに、ハウス・ミックスとかクラブ・ミックスみたいなリミックスがありましたね。ああいうのもそういう試みのひとつですよね。

本根 - avexはそういうことにトライしていたわけです。だけど、それはあくまでも90年代の話で、2024年に該当したり通用したりする方法論ではないと思いますよ。こういうことがあったんですねと、そういう風に聞いておいてもらえればと(笑)。

- cutting edgeでECDや東京スカパラダイスオーケストラを担当されるようになった経緯はどんなものでしたか?

本根 - 僕がcutting edgeに入ったときはとうぜん新米だから決裁権なんてありません。ただ、会社の決裁に導かれるように自分の得意分野の仕事ができるようになった面がありまして。というのも、売上ノルマはそれなりに高かったけれど、QueenやThe BeatlesやThe Rolling Stonesの原盤権を持っていないavexの洋楽部でどうやって売上を立てればいいのか、会社も頭を悩ましていたんですよ。それで邦楽もやるしかないと。だけど、そこですぐに大手芸能プロダクションに相談してしまったら、昔ながらの歌謡曲のディレクターと同じじゃないですか。会社が本根にやらせたいことはそれではないと。そこで、ECDや東京スカパラダイスオーケストラと何かをやろう、というアイディアも出てくるんです。

- ああ、なるほど。石田さんとの制作、共同作業はどのような感じでしたか?

本根 - 石田さんの持ってらっしゃる感性が勝負どころだから、僕からあんまりああしよう、こうしようと言うことはありませんでした。石田さんが考えることが面白かったし、そこがすごく大事なポイントでした。ECDをはじめ、SHAKKAZOMBIEやYOUちゃん(YOU THE ROCK★)、Kダブシャインにしても、当時cutting edgeでヒップホップって言っていただいた人たちをいま僕なりにリプリゼントすると、「フラがある」っていう言葉です。「フラがある」というのは落語家を褒める言葉で、そこにいるだけで可笑しみがあるということ。Mick Jaggerだってそうだし、Keith Richardsも偉そうにタバコを喫っているだけでなんだか可笑しいじゃないですか。忌野清志郎さんもそうですよね。石田さんにもそれがあった。真剣勝負の世の中に対するアンチテーゼの歌も悲しい歌もあるけれど、フラがあって、怒り狂っているのになんだか可笑しい。

- たとえば、“ECDのロンリーガール”もあれば、“MASS対CORE”もある、という振れ幅のなかで可笑しみがあると。

本根 - そうですね。“MASS対CORE”ですら憤って気がついたら汗びしょびしょになっている自分に対して「今日、何か俺おかしくないか?」みたいな視点があるじゃないですか。ちょっと照れていたりするし、風情があったりする。

- すごいわかりますね。BUDDHA BRANDは、石田さんが本根さんにデモテープを渡したのがcutting edgeと契約するきっかけだったんですよね?

本根 - 当時のavexはビルのフロアを借りている規模の会社で、しかも扉がいつも開きっぱなしでした。だから、誰でも入ろうと思えば入れちゃう。アポイントがないアーティストやDJが僕の椅子に座っていたりしたんですよ(笑)。ある日、ECDがやってきて、さすがにビールは持っていなかったけど、汗を拭っていたのはおぼえていますね。当時のavexはなんと言ってもユーロビートだから、音楽が聴ける小さい狭いスペースにディレクターたち4、5人が引き籠ってパラパラの振り付けを練習していて、夕方6時ぐらいになるとディスコにパラパラを教えに行くわけです。それで「石田さん、パラパラがあと30分ぐらいで終わるから待っていてもらっていいですか?」って言って。「あ、いいっすよ」みたいな。で、そのスタジオが空いて、そこで聴かせてもらったカセットがBUDDHA BRANDだった。

- 聴いたときどう思われましたか?

本根 - 聴いた瞬間にもう何も言うことないじゃないですか! 石田さんもすごい嬉しそうに「でしょ?」って。Dev Large(D.L)が、自分たちがもうすぐ日本に帰るから、ECDにコンタクトして日本にデモを先んじて空輸したんですよね。ECDの自宅にちゃんと届いたデモをcutting edgeに持ってきてくれたんです。そのカセットに入っていたのが、“Illson”と“Funky Methodist”だった。それで、BUDDHA BRANDが帰国して日本に帰ってきてすぐにRinky Dinkで録音したのが“人間発電所”でした。その録音やスタジオの段取りをしてくれたのも石田さんで、録音を担当してくれたのが若かりしころのillicit tsuboiくんです。

- “人間発電所”の制作秘話は、D.Lさんが亡くなられたときにDOMMUNEで行った特番「病める無限のD.Lの世界」で本根さんがいろいろ語ってくれました。その時点でディレクターとして、何かしらのイメージはありましたか?

本根 - とにかくかっこいいし、面白いからレコーディングしてみよう!っていう勢いでしたよ。そういう意味では、いまから考えると僕がビジネス的にはだらしなかった面もありましたよ。

- でも、結果的にその素早い決断によって“人間発電所”が録音されることになるわけですよね。D.Lさんは、当時流行していたフリーソウルや渋谷系を研究したり、Organ Barでウケたりするような曲を目指したと。つまりちゃんと時代を意識して売れる曲を作ろうとしたそうですね。石田さんにもそういうヒットを狙うみたいな発想はあったんでしょうか?

本根 - 石田さんは小沢健二とスチャダラパーの“今夜はブギー・バック”のカヴァーというかアンサー・ソングの“Do The Boogie Back”(『Homesick』収録)をやったじゃないですか。あれは、せっかくavexというメジャー・レーベルに入ったんだからポップなことをやんなきゃっていう石田さんから僕らへの手土産みたいな曲だったんです。気を遣ってくれたんですよ。Jポップがバブルだったのもあって、あの短冊CDシングルが4万枚も売れた。僕も石田さんもプロモーションのやり方なんて何もわかっていなかったのに。だけど僕はECDに、「やっぱりオリジナルでこれをこえる曲を書いてヒットさせないとダメだと思う」ってはっきり言いました。

- そこまではっきりと伝えたと。

本根 - 1曲売れたら次はもっと売るっていうのが商売だから。その曲がオリジナルであればなお良いですよね。だけどしばらくして石田さんから「俺がシングル・ヒット出すのは無理っぽい」って話をしてきて。それは石田さんだけじゃなくて、僕も負け惜しみとかじゃなくて現実的に難しいと思った。とりあえず、自分らのできることやるしかねえなってふたりとも思ったんです。

- “Do The Boogie Back”が1995年、“人間発電所”のシングルが1996年の5月に出ています。そして、1996年の夏に『さんピンCAMP』が行われます。『さんピンCAMP』はECDとcutting edgeの主催・企画ですね。あのヒップホップ・イヴェントはどのように捉えていますか?

本根 - はじまりは例のごとく石田さんがぷらーっと会社に来たことでした。そのころまだ石田さんはお酒を飲んでいたから。16時ぐらいに会社に来て、1、2時間わりと真面目に話すと、「どっか行きますか?」となる。石田さんも僕も贅沢するタイプじゃないから、会社の向かいの雑居ビルの地階にあった天ぷら屋さんに行って。石田さんは野菜天ぷらと日本酒みたいな。僕はお酒飲めないからその横で天丼食って。

- なんかその光景が目に浮かんできます。

本根 - その天ぷら屋さんで石田さんが「デフ・ジャムの『The Show』って映画知ってますか?」と。あの映画は日本ではまだ公開されていなかったから、「できるらしいね」って応じると、「あんなのやったらどうですかね?」と提案してきたんですよ。

- ああ、なるほど。

本根 - cutting edgeをデフ・ジャムに見立てて、キミドリ、BUDDHA BRAND、YOU THE ROCK★とかにも声かけてやりましょうよと。で、『Wild Style』のハイライト・シーンを東京で撮るとしたら、野音(日比谷野外音楽堂)でパーティするしかないでしょうと。あの映画で、リー・キュノネスが最後上から嬉しそうに観るシーンあるじゃないですか。ああいうのをふたりでイメージして。イヴェントをやって、オムニバス・アルバムを作って、イヴェントを撮影してVHSにしたら3回儲かるじゃんと(笑)。

- ははは。石田さんの商売っ気のある面はいまから考えると新鮮でもありますよね。

本根 - だけど、石田さんそういうことをちゃんと考える人でしたよ。

- 僕は、インディペンデントで活動をはじめる2003年以降の、大きなヒップホップ・ビジネスから離れた時代のECDの印象が強烈なのがありまして。

本根 - でも、どうでしょうね。あえて(ビジネス)と離れているように見せていた面もあったんじゃないかなって。石田さんは、2003年にベスト盤『Master』をリリースしたあと、cutting edgeとの契約を終了します。いまにして思うと、石田さんのやることやアイディアがすべて面白かったけど、だからと言って石田さんに任せっきりだったのは僕の良くないところで、力が及ばなかったといまは思います。契約終了を伝えるときのミーティングってとうぜん大概は暗くなるじゃないですか。「てめぇに乗せられて録音してリリースしたけど、ぜんぜん売れねぇ。どうしてくれるのよ?」って詰め寄られたり、大もめになっちゃうディレクターもいるぐらいですから。こういう仕事をやっていれば大なり小なり誰しも何回かはそういう辛い体験をする。でも、石田さんはそのとき僕に「ありがとうございました」って言ってくれて。僕が「これからどんな感じでやって行きます?」って訊くと、「小西康陽さんから本の執筆依頼があって、そのアイディアを気に入ってるんです」ってものすごく前向きに話してくれた。

- 小西さんのレディメイド・インターナショナルから出たECDの日記、エッセイ集の『ECDIARY』(2004年)ですね。僕も当時愛読しました。ECDの文筆家としてのデビュー作ですね。

本根 - そう。「仕事をしながら、自主で年に1枚ぐらいアルバムを出して100万ぐらい儲けて、本を書いて50万ぐらい儲けて、あとは石黒(景太)たちといっしょにやっているサウンド・デモをもっと真剣にやろうと思うんです」と話していました。

- つまり、そのときにその後の活動の明確のヴィジョンがあったと。

本根 - 彼自身の言葉を借りれば、「あちこちにちょこちょこ顔を出すような感じでやって行こうと思うんです」って。音楽だけでは忘れられてしまうかもしれないけれど、文章を書いたり、政治活動に積極的にコミットしたりしていくコンセプトがすでにあった。メジャー・レーベルが大きく投資して回収していくことに見合わないアーティストになってきたことを、彼も僕もわかっていた。そこでインディペンデントなセルフ・マネジメントに作戦を切り替えた。石田さんはそういう立派な人ですよね。

- 2000年代に入って、そういうインディペンデントの活動のモデルケースのひとつを提示したのがECDでしたね。ちなみに、cutting edge時代に本根さんが担当して最もヒットした作品は何ですか?

本根 - マイアミ・ベースとスカパラの歌モノのアルバムでしょうね。

- そうか、東京スカパラダイスオーケストラの『Stompin' On DOWN BEAT ALLEY』(2002年リリース)ですね。田島貴男、チバユウスケ、奥田民生とのコラボ曲が入っている。誰もが知っていますし、“美しく燃える森”は大好きで僕もカラオケでよく歌いますね。

本根 - あのアルバムはオリコンで1位になりました。BUDDHA BRANDのアルバム『病める無限のブッダの世界 ~BEST OF THE BEST (金字塔)~』(2000年)も30万枚以上は売った記憶があります。あとは、90年代の『Bass Patrol!』シリーズですね。ある日、会議の前に営業の人がトコトコトコっと小走りで僕のところにやって来て。会議の前だから上司に対して説得できる材料が必要じゃないですか。で、「足し算してみたらシリーズ累計で36万枚をこえてます」みたいな(笑)。

- 1997年にはじまったマイアミ・ベースのパーティ『低音不敗』のクルー(MOODMAN、COMPUMA、KUKNACKE、L?K?O、ZEN-LA-ROCK)を特集したDOMMUNEの番組がいまから4年前にありまして。僕は司会をやらせてもらって、本根さんがそこで、『Bass Patrol!』シリーズは、横浜の大黒ふ頭のパーキング・エリアでのベース・ミュージック・カルチャーとリンクして広がったと話されていました。

本根 - そうです。フランスのカンヌで開かれていた世界規模の音楽市場「MIDEM」に行ったときに、マイアミ・ベース、ベース・ミュージックを知るわけです。で、すでに日本にもそういうカルチャーがあって、横浜の大黒ふ頭のパーキング・エリアがすごいことになっていると聞いて、cutting edgeのみんなで行ったんです。そしたらもう荷台にスピーカーを積んだ車がずらりと並んでドッコンドッコンやっているわけです(笑)。「すっげえ! かっこいい!」ってなるじゃないですか。

- ということは、大黒ふ頭のベース・カルチャーを目の当たりにして、それから『Base Patrol!』シリーズのアイディアが生まれたっていうことですか?

本根 - そうです。だから、いまだったら絶対あり得ない仕事ですけど、社内にいるテープコピーのアルバイトの人に『Base Patrol!』シリーズをカセットに大量にコピーしてもらって、大黒ふ頭に持って行きましたね。ユーロビートやTRFも彼らのカー・オーディオでかければベース・ミュージックになるじゃないですか。そこで僕らがコンパイルしたマイアミ・ベースを渡すと現場の人たちも喜んでくれた。「すげえ、これはラウドだ」って。嬉しかったですね。

- お話を聞いていると、行動を起こす原動力になるアイディアが非常に具体的というか、そのときの迷いの無さが素敵だなと感じまして。

本根 - ただ僕はアイディアを思い付いて勝機があると思ったらガツガツ行くけど、それほど計算ずくじゃないんです。たとえば、スカパラの歌モノのアイディアもそうでした。僕は元々スカとかレゲエが好きで、ある日レゲエ関係の写真集か本をながめていたら、The Skatalitesの写真を見つけてひらめいたんです。その写真がすごくかっこよくて。The Skatalitesはインストゥルメンタルのバンドですけど、スタジオでは歌モノのバッキングをやっていたじゃないですか。同じように、スカパラがライヴでインストの曲を3、4曲立てつづけにやって盛り上げて、その後にヴォーカリストが出てきて歌うっていうのを数回くり返すライヴをして、ライヴ後に誰かにDJしてもらったら面白いんじゃないかって。そのアイディアを当時のスカパラのマネージャーさんに伝えたら、「良いですね」って話になった。

- あの歌モノのアイディアの源泉がThe Skatalitesの写真だったというのが痺れます。

本根 - 僕は若いころにスカパラを芝浦のインクスティックで観て、ものすごいハードコアなスカのバンドだっていう認識でいたから。もちろんメジャーになったからには広げていかなくてはいけなかっただろうけど、90年代中盤までのEPICソニー時代は僕からすると、ちょっと歌謡の要素が強く感じられて。それでスカパラのハードコアなところを広く伝えるためには、しっかり足場を固める必要があると考えたんです。つまり、ちゃんと戻れる場所を作ると。それでどうしようか考えて海外ツアーをやろうと。それが2000年です。ドイツ、イギリス、フランス、オランダ、ベルギーを回りました。海外に行けば向こうでは新人バンドとして扱われるし、ぜんぜんお金にならないけれど、いろんなお金をつぎ込みまして。で、とうぜん音楽や演奏がすごいから実力で勝負して海外の音楽好きを納得させることができた。いまやメキシコでものすごい人気で集客力も半端ない。海外でも活躍していますよね。その叩き台を作ったのがその時期だった。僕もそこでスカパラに確信が持てたから、ヴォーカリストを招いた曲を作ることには何の迷いも矛盾も感じなかった。

心の底から「励ます力」

- avexを退社されるのはそれから数年後でしょうか。それはまたなぜ?

本根 - 僕が2006年にavexを退社した理由はもうヒットが生めないと思っちゃったからなんです。avexは大好きだし、素敵な仲間もたくさんいたし、会社の人も慰留してくれて「頑張ろうよ」って言ってくれたけど、もうダメだと思った。いまにして思うと、5年ぐらい我慢すれば時代は変わるけれど、2005、6年ころはいろんな意味で過渡期でした。もとより宣伝費のないcutting edgeでどうやって売っていくかっていうのを考えあぐねてしまった時期で。いまみたいにSNSはもちろんなかったし。YouTubeもまだ浸透していなかった。ECDの好きな人たちがECDの情報を交換する場所があったじゃないですか。

- 「ECD BBS」って掲示板を石田さんみずから運営していましたね。かなり活発にやっていました。

本根 - レコード会社のなかには、ああいう掲示板を「勝手サイト」と呼んで、そこにリリースやライヴの情報を出すのは良いのかどうなのかと議論になるぐらいの時代でしたから。

- これだけ個人でなんでも情報発信できる現在からはちょっと想像がつかないかもしれないですね。

本根 - しかも、ウェブサイトを立ち上げるにしても、人も金も非常に要る時代だったし、僕はとても悩んでしまった。とうぜんのことながら勤め人なので、ディレクターがダメなら営業や進行管理をやればいいし、いろんな仕事がある。だけど、僕は数字や算数にすごく弱いし、パソコンもぜんぜん使えない。わりと使い物にならないポンコツな部分が多い。そうすると、いままで鼻っ柱が強かった自分が会社のなかで貢献できる場所がなくなっていくような予感がしちゃって。営業やそれ以外の職種や部署で頑張っている人たちにはホントに申し訳ないけれど、やる気がなくなってしまった。自分にできるのは、アーティストのいちばん近いところで、その人たちの才能を引っ張り出すことでしかないって思い込んでいたんでしょうね。

- ディレクターの仕事のいちばんの肝を一言で表すとどうなりますか?

本根 - 心の底から「励ます力」だと思う。じつのところそれしかやることってない。そこでは相手との年齢差とかどちらが年下だとか、年上だとか、そういうのはまったく関係ない。avexを辞めてからシーナ&ザ・ロケッツのマネージャーをやることになりますけど、鮎川(誠)さんに対しても、その曲が良くなければ良くないと言わなきゃいけないし、良いときは「ギャーッ!」ってパンツ一丁で走り回る。それはもう誰に対しても変わんない。けれども、スタジオで「この曲はすごいっすよー! 俺、絶対売るっす!」って言っても売れないことの方が多い。王選手だって3割しか打てなくて、7割はダメだったわけだから(笑)。世の中ってそんなもんじゃないですか。

- ははは。ですよね。ディレクターは出版業界にたとえると編集者に近い職業だと思いますけど、アーティストや書き手自身が気づいていない、見えていない長所やポイントを顕在化させるのも仕事ではないですか。

本根 - そう、ディレクターはそういう仕事ですよ。どのレコード会社でも現場でも、当時の僕みたいなちょっとクレイジーなアクの強いディレクターと、アクの強いアーティストがケツを叩き合う、みたいのは必要だと思います。もちろんメジャーや大きな会社が属人性を高めてしまうと、スピード感や効率が上がらないことは理解できます。だけど、いまはインディペンデントのままチャートの1位まで行ける時代でもあるじゃないですか。そうなったら、その人間にしかない個性をどんどん打ち出していくべきだと思う。

一方でavexの在籍時から、cutting edgeや会社ではできないことで「俺は何をしたいんだろうか?」って考えていて。そこで「俺はブルースやリズム&ブルースを若いヤツらに聴かせたいんだ」って気づいた。EMMA HOUSEで踊りまくるのも楽しいけど、EMMAさんもそうですが、ルーツはみんなニュー・ウェイヴやパンクなわけで、僕に関して言うと、ハウスを聴けば聴くほどおのずとブルースやリズム&ブルース、ロックンロールに詳しくなって好きになる。でも、僕にはブルースやロックンロールの人脈がまったくない。そこで山名昇さん(音楽評論家/編集者)に電話して相談した。山名さんは僕の音楽の師匠です。僕がやっているのは、山名さんと、overheatの石井志津男さんの真似でしかない。青春時代はそのふたりからすごい影響を受けましたから。

- そうだったんですね。ちょっと前に、山名さんが1984年に自費出版で出されたデビュー作で、音楽散文集と題された『寝ぼけ眼のアルファルファ』を買って読んでいました。

本根 - で、山名さんに、「ブルースが自分のなかですごい来てる」と電話で伝えると、「お前もやっと来たか」と(笑)。それで「鮎川さんに声を掛けてみるよ」と言ってくれて、鮎川さんプレゼンツで、シーナさん、山名さん、そして僕の4人で「Bluesville Shibuya」というブルースのラジオ番組を渋谷FMではじめることになった。2000年から2012年までつづきました。鮎川さんはご存じのとおり、ギターはもちろん上手くて、作曲能力もあると同時に、やっぱり音楽に対する知識と愛情の裏打ちが半端ない。僕からすると、石田さんと鮎川さんは似ていて。商売の損得勘定でバチッと物事を決めるときもあるし、気持ちだけでスパッと行くときもある。音楽のジャンルとかじゃなく、その匙加減やメンタリティが僕からすると共通していました。

※下記のリンク先にある「Bluesville Shibuya」でかけた曲をすべて網羅したリストは鮎川誠の手入力による。

http://www.rokkets.com/bluesvilles/

- そのラジオ番組もあって生まれたのが、鮎川さんが監修して、シーナさん、本根さん、山名さんも執筆されている『200CDロックンロール 俺たちの愛したパンク/ロック/ブルース』(学研出版)というディスク・ガイドですよね。本根さんは、avexを退社したあとに、シナロケとともにカーネーションのマネジメントもされたわけですが、その鮎川さん、シーナさん、カーネーションの直枝政広さんの2006年の鼎談を読むと、御三方のロックにたいする並々ならぬ情熱が伝わってくるというか。

本根 - シナロケやカーネーションがやってきたルーツ・ロックは音楽の基本にあるものじゃないですか。カーネーションの作る楽曲にもリズム&ブルースの要素がある。

- 僕もカーネーション大好きです。

本根 - 素晴らしいですよね。シナロケのマネジメントを5、6年やりましたけど、2011年の東日本大震災の影響で日本の経済がいろいろおかしくなってしまったのも要因でマネジメント業を離れまして。鮎川さんのお仕事は、実はCMやテレビも多かったけど、それまでのようには行かなくなって。その後JET SETに1年半ほどお世話になります。ヴァージン・メガストア時代にいっしょだった岸本英太郎さんがJET SETを立ち上げていたので頼み込んで仲間に入れてもらったんですね。そこで僕がすごく驚いたことがあって。というのも、マネジメントの仕事は基本、そのアーティストのことだけ見るわけですよね。だから、シナロケ時代には若いバンドのこととかにちょっと疎くなっていて。JET SETの先輩が言うには、「いまは、音楽で食って行こうと考えていない若いバンドも多い。その代わり、腹を割った、研ぎ澄まされた素晴らしい音楽を出してくる」と。僕はそれまでディレクターやマネージャーとして、良い音楽をとにかくいっぱい売るために頑張ってきた。それは当たり前の発想じゃないですか。たとえアーティストと喧嘩したとしても、売るときは絶対に売るんだって意地があった。

ところが、JET SETに入って、そこまで無理やりヒットさせなくてもいい、その代わり自分たちのアートフォームを研ぎ澄ませておきたい、そう考える若いバンドやアーティストたちがたくさんいることを知るわけです。だったら、そういう人たちの音楽をいっぱい褒めなきゃって考えて。しかも、そういうインディの人たちがアナログをリリースすることにも関心があると。それでJET SETではレコード盤の制作をしていました。さらに、JET SETのアナログ担当がきっかけで東洋化成に入社してからRecord Store Day(以下、RSD)を日本に持ってくることを考えまして。自分たちの音を出している日本のインディ・バンドやアーティストがRSD でその感性を発露できれば面白いんじゃないか。しかも、RSDのファミリーに入れば、世界各国に流通ができる。そう考えたんです。で、東洋化成の社長にお願いして、NYまでの往復のチケットを買ってもらって交渉しに行って、RSDを日本で立ち上げることができた。avexを辞めるときは、「もう俺ダメ……」と思っていたのに、アナログ担当になって若いアーティストやリスナーと近づくと、たちまちもうヒットが出せる気しかしない(笑)。

- そういう経緯だったのですね。2018年から東洋化成がRSDの日本の担当になっていますね。

本根 - シティ・ポップっていう言葉はもうずっと前からありますけど、2020年から東洋化成の主催で「CITY POP on VINYL」っていう新旧のシティ・ポップと呼ぶことのできる音楽のアナログレコードに特化したイヴェントをはじめて。過去の作品をアナログで復刻したり、いまの若いアーティストの曲の7インチを作ったり。そうすることで、レコード屋さんにシティ・ポップのコーナーができたりするのは嬉しいですよね。自分はWAVEやヴァージン・メガストアというレコード店で働きはじめたのが、この世界に入ったきっかけですし、レコード店が音楽文化を発信する現場という意識を強く持っていますから。

- その感覚とてもよくわかります。

本根 - 若くて勢いのあるアーティストやバンドは評価を欲しているけれど、ジャンルに括られるのを嫌うじゃないですか。たとえば、シティ・ポップが流行れば、ちょっと似たような音楽性であったとしても「俺らはシティ・ポップじゃない」と言うし、かつて「めんたいロック」でひとまとめにされようとしたとき、鮎川さんがそうだったように博多弁で「わしらはめんたいロックやないけんね」と突っぱねる。『さんピンCAMP』が盛り上がったときもそれにたいする反発はありました。何かが盛り上がれば、それに対するアンチテーゼを絶対に引き起こす。だからこそ一石を投じていることは間違いない。ときにアーティストに嫌われてもキャッチフレーズを付けて、わかりやすく売る必要があれば、そうします。最終的に売ってあげられるか否か、そう思っていままでやってきましたけど、僕自身はまったく儲かっていない(笑)。そのぶん楽しいから仕方ないですけどね(笑)。いまふたたびavexに戻って来て良かったと思っていますよ。

- どうしてそう思われますか?

本根 - 40代の青春時代に、真剣勝負で深く葛藤して思い悩んで、avexを辞めて、その後シナロケのマネジメントをやったり、レコードのビジネスをやったりしていま62歳ですよ。一般的にはそろそろ定年退職する歳じゃないですか。さっきも話したように、僕はけっこうポンコツで、そんな器用に仕事をできるタイプじゃない。でも、いま久々にavexで20代のディレクターのお手伝いをしているのがすごく良くて。レコードをプレスするためのマスター入稿の締切になっても若いディレクターから音源が届かなくて、プレス会社に「ごめんなさい! あと10日待って!」って謝ったり(笑)。僕だって若いころ人の約束を破ってしまったり、失敗して上司に怒鳴られたり、アーティストと喧嘩したり、そういうことを散々経験してきたから、いまその最前線にいる若い人らの気持ちはよくわかる。昔から僕は、音楽が大好きで頑張っている若い人たちとガチャガチャと葛藤しつつもお手伝いしつづけていくのが楽しいだけの人なんです。いまの音楽シーンを見渡して、たとえばCharli xcxやDua Lipa、King GnuやAAAMYYY、Post MaloneとかBialystocks……ジャンルがごちゃ混ぜで整理しづらいけれど、聴いていれば毎日わくわくできるアーティストが活躍する時代じゃないですか。そういう時代に、ヴィヴィッドなヒットを生み出すレコード会社の端っこで若い人たちと悪だくみできるのは、本当にうれしいことです!

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