11/18(土)に開催される渋谷Spotify O-EAST、duo MUSIC EXCHANGE、AZUMAYAを舞台にしたサーキットパーティー『WALTZ』。2021年の11月に第1回が開催され好評を博した当パーティーは、今回もジャンルを越境した多彩な出演陣で発表直後から大きな話題を集めている。本稿では『WALTZ』に出演するceroのフロントマン、髙城晶平とDJのokadadaのふたりに話を訊く。テーマは“読書”。本とダンスフロア……一見、距離があるように感じるふたつのカルチャーにふたりはどのような関連性を見出すのか。
取材・構成 : 高橋圭太
撮影 : 寺沢美遊
- 今回は11月18日の『WALTZ』に出演するおふたりに本にまつわる対談をしてもらいたいなと思っていて。髙城さんもオカダダさんも読書家ですし、ダンスフロアやパーティーをイメージさせるような本を選んでいただき紹介できたらいいなと。ちなみにおふたりは普段の生活のなかにどんな感じに読書を組み込んでいるんでしょうか。
髙城 - 自分は読書をしっかり趣味って言えるぐらいにしていこうって思ったのはコロナ禍以降なんですよね。その前もちらほら読んではいたけど、読書量的にも趣味って言えるほどでもないくらいで。コロナ禍になって仕事がバンバン飛んでるタイミングで、改めてちゃんと趣味にしていこうかなって能動的に手に取り出して。とはいえ子どもがふたりいるんで、読む時間にもタイムリミットがある。子どもたちが夕方に帰ってくると忙しくなってくるから、それまでの時間、喫茶店に行って読書する時間に使おうって思ってますね。あとは子どもたちが寝たあとの時間とかね。っていうような感じなんで、ペース的にはそんなに読む時間はなくて、多くても月3〜4冊、アベレージで2冊読めるかなぐらいの感じですねぇ。1日の読書時間だと正味2時間とかそんぐらいのペース。
- オカダダさんはいかがでしょう?
okadada - 自分も高城くんといっしょで、コロナの時期はやっぱ暇もあったし、音楽いろいろ作ったり聴いたりの延長でちょっと本読むかってなったんですよね。その一環で最近は友達と(トマス)ピンチョンとかを読む読書会をやってみたり。こういうタイミングだし古典をちゃんと読もう、みたいな。時間がドサッとあるときに『ドン・キホーテ』(ミゲル・デ・セルバンテス著 1605年出版)とかそういう長くて時間がないとなかなかトライしないような本を読んだり。それまではちょこちょこ本が増えるぐらいの感じやったのが、コロナ禍で暇やったからというのもあり習慣づきましたね。
髙城 - そういうひと、たぶん多いよね。
- 時間ができて、改めて本の魅力が再確認できたというか。
okadada - そうっすね。読むペースとしてはどれくらいなんやろ? 読む本によって全然ちがうからむずかしいけど、新書とか小説やったら2日くらいで読み終わるし、いまtomadといっしょに読んでる『千のプラトー』(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著 1980年出版)とか、こんなん全部読むのに何年かかんねんみたいな感じなんで。自分は家で全然読めるタイプで、読んでその本に飽きたら横にある本をめくる、みたいな感じにやってて。あとは図書館とか、ご飯食べに行くときにスマホ置いて本を持って行って読む、みたいな。その習慣がいちばん多くて、コロナの前からやってたんですよ。デジタルデトックスっていうかね。だから自分も1日1時間か2時間ぐらい。読む日はずっと3〜4時間読んでたりできるけど、読まない日は“あ、読めないわ”みたいになって、それなら“ゲームしよう”とか“音源の整理しよう”とかになるって感じですね。
- オカダダさんとは本の話を前々からしていて、それこそいっしょに読書会とかをやったりもしているんだけど、よくメモを取っているイメージがあって。
okadada - 取るときもある、くらいですね。でもメモ取ってると、メモすることにアガってくるんですよ。“メモ・ハイ”みたいな。
髙城 - それでいうと自分は“付箋ハイ”ありますね。(持ってきた本を指して)これなんかめっちゃ貼ってある。
okadada - わかりますね。自分も“付箋ハイ”になってる本持ってくればよかった。“これ、意味あるんかな”と思いながら貼っちゃう。
髙城 - “つまり全部見逃せないってことだ!”って納得してね。さすがにこれだけ貼ってると、貼ってない部分のほうが大事なんじゃないかと思えてくる(笑)。
okadada - でも最近はいろいろやってみて、本に直接鉛筆で書き込むスタイルが多いです。
髙城 - そうなんだよね、結局それがいちばんだろうなぁ。
okadada - 付箋はどういう意図で貼ったか思い出せなくなるんですよね。こういう感じでほんまに思ったことを直接走り書きしたりとか。
髙城 - いいですねぇ。古本とかでこういうのよくありますもんね。のちのち売ることとか、きれいに保管するってことを考えなければ、これがいちばん理にかなってる。あと、メモについて訊きたいんですけど、メモのタイミング。“あ、これはメモるところだ”って読んでてわかるんだけど、メモの帰結がわかんないと、書きだせないっていうか。その切替えがわかんなくて、書き逃しちゃうことが多くて。
okadada - 自分は単純に読んだ瞬間に思ったことをすぐ書いちゃいますね。メモの最終的な着地とかもなくって。すぐ書かないと忘れちゃうんで。きれいに残すとかもないので、ほんと走り書きもあれば、長いこと書くこともあるっすね。あとはピンチョンとか読んでると、話がややこしくてメモしとかないとわかんなくなるんですよね。そういう、まとめるために書くこともあります。そういうときはだいたいノートとかに書いたりする。
- 髙城さんは読書メモ、どのように書いてるんですか?
髙城 - 自分は思考の過程というより、まとめみたいな感じで書いてますね。けっこうちゃんと書いちゃうから、どこでメモ書こうかなって思ってるうちに、最後まで読んでしまうみたいなこともあって。“うわ、終わっちゃった”ってなって、思い出しながら付箋つけたところを振り返ってまとめたり。
- でもおふたりともメモはアナログ派なんですね。
okadada - あ、でもデジタルでも書くときありますよ。自分はScrapbox(オンライン上でメモを保存、整理できるノートツール)を使ってて、PCでもスマホでもメモできるようにしてますね。そこまでうまくは使えてないけど。
髙城 - 便利そう。メモも無理に一本化しなくていいんだな。デジタルでもアナログでも、思ったことを定着させるために残すって動きが必要なだけだから、アウトプットはいくつあってもいいっていう。あぁ、訊きたいこと訊けてるなぁ。これ、いい対談ですね(笑)。
- ハハハ。ひとの読書テクニックを知れる機会、意外とないですもんね。ちなみにおふたりは読書のどんなところに気持ちよさを感じますか? 読書の醍醐味というか。
髙城 - 自分はいつも喫茶店に2、3冊持ってって、ひとつは小説、ひとつは人文書みたいな感じで、全然関連性がないような本を持っていくんです。で、片方に飽きてもう1冊を読んだりしたときに、関連を感じるというかリンクが見つかった瞬間とかは気持ちいいかもしれないですね。パズルみたいでおもしろいですよね、そういうの。
okadada - それ、すごいわかるっすね。全然関係ないのに“コレとコレ、いっしょのこと言ってね?”みたいな。勝手にこっちで関連性を見出しちゃってるのかもしれないけど。
髙城 - あとは自分が作品作ってる最中、“こんな感じのアルバムにしていきたいな”みたいなイメージがあったとき、それに付随するような内容が本で出てきたりすると、“あ、自分が作ってるものに通じてる、やった!”ってなるかな。
okadada - たしかに。逆に“これ、自分が思ってたことだ”と感じたあとに、読み進めていったら“オレ、そんなこと思ってなかった”みたいなことが書いてあるときも好きなんですよ。“あれ、先いかれてるわ”みたいな。揺るがされてるというかね。もしかして自分にとって正しいんじゃないかと思ってたことの先にさらになにかあるという、うねうねした感じ。
髙城 - いいですね。たしかにおなじことを考えてるっていう気持ちよさだけで終わるというのは危険かもしれない。
- さて、このあたりでおふたりに本を紹介してもらおうと思って。今回はパーティーやダンスフロアにまつわる本をイメージして持ってきてもらっています。ではまず髙城さんからお願いします。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(2011年出版)
髙城 - けっこう持ってきちゃったんですけど、そのなかからいくつか紹介できればと思ってて。まずはベストセラーというかね、読んでるひともとっても多いと思うからこれを。國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』。國分さんの本だと『中動態の世界』(2017年出版)を最初に読んでいて、その後、いろんなひとがこの本を紹介していたから手に取ってみたという感じですね。内容としては主に“退屈ってどういうことが起きてるのか”みたいなことなんだけど、途中で(マルティン)ハイデッガーの“退屈の形式”って考え方が出てきて。まず退屈の第1形式っていうのが、いわゆるみんなが感じる退屈……退屈させられてる状態ってことですね。駅で乗り継ぎに失敗しちゃって、次の電車が来るのに1時間かかるっていうので、さてどうしよう、駅からも出られないし、本とかもない。もう景色をとりあえず楽しもう、木でも数えよう、みたいな。で、全然時間が過ぎるのも遅く感じちゃうっていうのが第1形式。第2形式は、そこから発展して、パーティーにお呼ばれして、おしゃべりも楽しんだし、お酒も飲んで、音楽もかかってて、それなりに楽しい時間を過ごしたって思うんだけど、帰ってきて“うーん、なんか退屈だったな”みたいな感じになる、みたいなこと。第3形式っていうのがいちばん手に負えないんだけど、普通に街を歩いてて、これから用事とかもあるのに、なんか急に空虚になっちゃう。で、自分は第2形式の感じ、なんかわかるかもと思って。もう遠い昔になっちゃいますけど、Roji(今回の対談場所でもある阿佐ヶ谷にあるカフェバー)で働いてたときとかも、友達が集まってワイワイ楽しく過ごしたような、でもなんか退屈だったような感覚ってすごいあったよなと。そういうことが書かれてて。でも國分さんは最終的にそういう退屈をいちばんよしとするんですよね、結論として。いろんな退屈があるなかで、それはけっこう上等な退屈じゃないのと。つねにパーティーに仕事としても遊びとしても行ってるようなひとたちがこれを読んでるっていうのには、なにかしら思い当たるところがあってのことなのかなとか、そういうことを思いながら読みました。
okadada - 『暇と退屈の倫理学』、自分も前に読んで思い当たる節が多い本だなって思いましたね。クラブってワンダーランドじゃないから、どう退屈を前提として楽しむか、そもそも楽しまなくてもいいっていうか。時間が過ぎるってことがわかるのがいいんじゃないの、とも思うし。特にハウスミュージックなんて、そういう時間の伸び縮みがいちばんわかりやすいし、それがいちばんすごいところだと思うんですよ。それをハイデッガーが言うとこうなるんだってのはなるほどと。2016年とか2017年くらいに読んだっすね。
髙城 - 自分はたしかコロナ禍の最初のころだったかな。たぶん、コロナの期間って暇とか退屈とかをより考えざるをえない時期だったと思うんですよ。それもあって時間をかけてベストセラーになったんじゃないかなって。
okadada - あと読みやすいですよね。哲学書っていうかはエッセイっぽい。
- ではオカダダさんにも紹介してもらいましょう。
岡倉天心『茶の本』(1906年出版)
okadada - 自分はいろいろ悩んで、岡倉天心の『茶の本』を。原書は1906年に書かれたもので、短い論文みたいな、海外向けに茶道の考え方を紹介するって本なんですけど。それまで茶道のことなんか全然知らなかったんで、とりあえずちょっと読んでみようって。読んでけっこう驚きましたね。“茶道とクラブに共通点が!”とか言うと、ちょっと恥ずかしいんですけど、実際似た部分は多いなって思っちゃった。その空間自体がどうあるかってことを考えるのが茶道なんだ、みたいなことが書いてあるわけですよ。で、そこにはいろんな要素があって、たとえば花がどう生けてあるかとか、どんな掛け軸が飾ってある、みたいなことも要素としてあるんだけど、それ以前に茶室の広さががなんであんなに狭いのかということが書いてある。読むと、茶室って4人以上は入れないようにしてあるそうで。4人以上ではニュアンスが変わってしまって、場所の美学が表現できないと。だから物理的に入れないようにしてるんですって。で、茶室って入り口を入るときに下にくぐらなきゃいけない。もちろんえらいひともそこをくぐって入らないとダメなわけですよ。そこで階級が無化される、っていうことが書いてあって。
髙城 - へえ、なるほど!
okadada - で、“あれ、これってクラブといっしょなんじゃない?”みたいな。クラブって照明が暗くて、年齢も職業もファッションもおなじふうに映ってしまうってのが大事じゃないですか。それはクラブ以前のディスコがきらびやかな格好する場所だったのに対しての反動からだと思うんですけど、そういうのが茶道の時代から普通にやってることで、しかもそれが高級芸術として存在した時代があったと。読んでみて、そこをつなげて考えてもいいんだっていう驚きがありましたね。さっきの関連性でうれしくなるって話じゃないけど、“こことここが!”みたいなね。でもこれって、たとえば自分がマーケティングを仕事にしてるひとだとしても『茶の本』とマーケティングを関連づけることってできると思うんですよ。なんなら無理やりつなげてもいいと思う。あと、この本を読んで場所性みたいなのをよく考えましたね。茶道においてはその場所と時間が過ぎることに価値があるというか。作品じゃないんですよ。作品未満的な空間があることと、そこにひとがいること自体をひとつの美学にするっていうものなんですよね。自分らのやってることっていったいなんなんだろうって考えるときにわりと参考になりました。
髙城 - おもしろいなぁ。前に、茶道は応仁の乱をちゃんとくぐり抜けてこられた文化だって聞いたことがあって。応仁の乱でそれまでの日本文化はほとんど潰えてしまって、そこをくぐり抜けた文化はめちゃめちゃリスペクトされてるという。その話を聞いてから茶道ってものに興味はありますね。
- おふたりとも違う性質の本なのがおもしろいですね。ではこのまま交互に紹介していきますか。髙城さん、次はどんな本を?
リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』(1985年出版)
髙城 - これ、たぶんオカダダくんも好きなテイストだと思うんだけど、リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』。
okadada - パワーズは読んだことないんですけど、気になってて。
髙城 - ピンチョンが好きならたぶん好きだと思うんですよね。といっても、自分はピンチョンにまだ挑戦したことないんだけど。これ、上下巻あって、アウグスト・ザンダーという写真家が20世紀初頭に実際に撮った写真作品がテーマになってる小説です。まだ写真の技術が出はじめて間もないころに、彼は普通にそのへんを歩いてるひとのポートレートを撮って20世紀に生きる人々のアーカイブを作ろう、みたいな壮大なプロジェクトを持ってて。この表紙にもなってるきれいな格好して舞踏会に向かってる農夫たちの写真は、第一次大戦前ギリギリのときに撮られてるんだけど、この史実にも残ってない、プロフィールもわからない3人の物語をパワーズの想像で小説にしていってるっていう。この3人はきっと年齢的にも、のちの第一次大戦に巻き込まれていくだろうっていうことだけがわかってて、このひとたちの向かう先には舞踏会があるっていう。要するに第一次大戦っていう巨大なダンスフロアに向かっていくっていうことが上下巻で描かれてるんです。だからまぁ、この1枚の写真があるだけで、あとは完全なる想像なんですよ。でもめちゃくちゃおもしろい。ぼく、パワーズがめっちゃ好きで。パワーズとスティーヴ・エリクソン、あとはドン・デリーロなんかはすごく好きなタイプの作家。
okadada - そこにピンチョンを加えたら、現代ポストモダン作家の4大巨頭ですよね。自分はピンチョンしか読んでないので、いつか読みたいと思ってるけど。
髙城 - パワーズは最初にDJのMINODAさんから教えてもらって。MINODAさんはパワーズがすごい好きらしくって、『エコー・メイカー』(2006年出版)っていう本を貸してくれて。それがきっかけですごく好きになった作家。すごいポエジーと、理系の大学を出てるからその科学的知識を縦横無尽に駆使して小説を駆動させていくんだけど、そのやり口にすごいやられちゃって。『舞踏会へ向かう三人の農夫』も歴史や哲学の知識が盛り込まれてて、写真がテーマなだけに複製芸術に対しての論考に1章まるまる割かれてたりしてすごくおもしろいなって。以前、デリーロの『ホワイト・ノイズ』(1985年出版)をウェブで紹介したときに自分は“デリーロはバンドでいうならトータスのようなポストロックっぽい感じ。パワーズはすこしエレクトロニカの雰囲気があって、エリクソンはガレージロックやポストパンクみたいなノイジーでガリガリしてるイメージ”って書いてて。作家の文体とか特色で音の感じが見えますよね。
- その見立てはおもしろいですね。音楽家ならではというか。
髙城 - 質感がそれっぽいな、みたいなふうに思ったりしてね。作家それぞれの音のニュアンスがあるから、そこを探るのも楽しいですね。じゃあ、オカダダくんのターン。
アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(1994年出版)
okadada - 小説が続いたんで、次は人文書を紹介しましょうか。アルフォンソ・リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』。ちゃんと知らなかったんですけど、いいタイトルやんって。徳島にDJで行ったときに本屋入って見つけました。中身はけっこうむずかしくて精読はできてないんですけどね。書いたひとは哲学者で、内容としては紀行文と哲学論考と彼が撮った写真が全部並列に置かれてる本。やっぱ共有するものがあるから共同体ってのは生まれるわけですけど、そこで生じる袋小路を避けつつ、共有するものがなくても共同体というのは維持が可能かということをいろいろ考えようと。で、文末に解説があるんですけど、そこでは“この思想書において大事なのは文体なんだ”と書かれてて。っていうのは、意味が共有されると共同体が発生して、権力構造が生まれてしまうわけじゃないですか。だからこそこういう、いろんなものがないまぜの構成の本なんだっていう。“ひとに伝えたいときに、そのひとがしゃべれない言語で言うっていうことをやらないといけない”みたいなことを書いてあるんですよ。
- 共有するものがあることで流れてしまう意味があるというか。
okadada - クラブとかでも“やっぱ言語じゃないよね”って言っちゃいがちだけど、そうもいかないわけじゃないですか。符丁だったりファッションだったり、いろいろあるわけで。だから自分も“意味の共有を超えたフロアっていうのは可能なのか”とか考えるんですけど、そんな人間が『何も共有していない者たちの共同体』ってタイトル見たらやっぱ好感持つじゃないですか。最近はよくむかし読もうとして読めなかった本にまた挑戦したりしてるんだけど、いまになって思うのは、そういう本って言語で無理なことを言語でやろうとしてるんだなっていう。要するに、言語でできる限界をいったん考えておいて、そこからそれを超えることが可能か考える、みたいな。時代が進むと言語の限界が見えてきて、それをゲームとして捉えてる言語ゲーム論みたいになっていくんだけど、それでも書くひとって、なんとか文字でできないことを文字で可能かって問いにトライし続けてて尊敬するんですよ。
髙城 - 自分はドン・デリーロを読んだときにそういうことを思ったな。普通に書けば数十ページもあれば終わるところをこんなに迂回して書くのはどういうことなんだろうって。でもそれってかんたんに共有できる符丁で小説を書かない……符丁のないところに飛び込んで、なにかを描こうっていう結果だったりすんのかなって。
okadada - ピンチョンの『重力の虹』(1973年出版)にもそんなことを思ったりしましたね。あとさっき話してて思い出したんですけど、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』(1966年出版)っていう中編に、ろうあ者のダンスパーティーのシーンがあるんですよ。耳が聞こえないひとのダンスパーティーに紛れ込むと、音が聞こえないはずのろうあ者がだれもぶつからずに踊ってて、楽器演奏が終わるとみんな座りだすっていう。すごい象徴的っていうか。総じてそのあたりの時代の作家はいま言ったようなことを書いてますよね。もちろん読むとむずかしいから“おおっ……”ってなるけど、よく考えたらクラブカルチャー自体がそもそもこういう思想のうえに成り立ってるから、肌感覚でわかってたりもする。この本を読んで、改めて確認しましたね。
- ありがとうございます。では次は髙城さん、3冊目の紹介をお願いします。
ザッヘル・マゾッホ『魂を漁る女』(1886年出版)
髙城 - じゃあ自分はラスト、マゾッホの『魂を漁る女』を。マゾッホはマゾヒズムの語源となったひとで、ウクライナの作家。最初に紹介した國分功一郎さんがウクライナの戦争がはじまったときに、カメラの前でいろいろしゃべる企画をはじめていて。そこで『ザッヘル=マゾッホ紹介』(ジル・ドゥルーズ著 1967年出版)っていう、ドゥルーズがマゾッホを紹介する評論本をピックアップしていて、それで興味を持って読んでみようと。途中で印象的な仮面舞踏会のシーンがあるので、今回のお題に寄せられるかな、と。内容はというと、冒頭から昔のマンガのSMみたいなムチがすぐに出てきてちょっと笑っちゃったんだけど。ああいう描写って後々戯画化された表現なのかと思ったら思いっきりやってる(笑)。で、國分功一郎さんは動画で“マゾッホみたいな作家が、ウクライナっていうドイツやロシアに挟まれてる複雑な国から生まれてきたのは必然だったんじゃないか”って言っているんだけど、いまの時代ともつながってることがたくさん出てくるんですよ。貴族たちを描いてるからダンスパーティーの描写もたくさん出てくるし、退屈してるひとたちがいろんな享楽を考えていくことが、こういうふうに作品になってるっていうのが興味深いなと思って。100年以上も前の本なんだけど、おもしろくて、読んでたら電車乗り過ごしちゃうくらい。
- 髙城さんが感じたこの小説のおもしろさってどんなところなんでしょう?
髙城 - 主人公の幼馴染のドラゴミラっていう女性……彼女が“魂を漁る女”なんだけど、秘密結社の刺客なんだよね。遊び呆けてる貴族に鉄槌を下すっていう。言い寄ってくる男と関係を持って殺していくんだけど。
okadada - ハハハ! そんな話なんすか!
髙城 - そう。で、だんだんそれが貴族の男たちも“君に殺されたい”みたいになっちゃう。そうして彼女自身もそこに喜びを感じはじめてるのかも、ってなる話で。人間の享楽ってなかなかおもしろいもんですねぇと思って。この本を読んで以来、マゾッホがすごく気になって。こないだも『ユダヤ人の生活』(1891年出版)って短編が届いたばっかり。そこにはおもに、ロシア・ユダヤ人と呼ばれる人々が描かれてるんだけど……のちにそのひとたちがシオニズムの最初の中心になっていってイスラエルに向かったんだよなぁ、みたいなことを考えてて。いま読んだら意味があるかもと思って、時間があるときに読んでる感じですね。
okadada - 自分は学生時代に(マルキ・ド)サドのほうは読んでるんですけど、マゾッホは読んでなくて。
髙城 - 『ザッヘル=マゾッホ紹介』は読んだ? 短いからすぐ読めるし、すごいおもしろいですよ。
okadada - 読んでみます。『魂を漁る女』もおもしろそうですねぇ。
髙城 - 受動性と能動性がだんだん逆転していく、みたいな物語で。
okadada - なるほど、そこが國分さんの中動態的な部分……能動と受動の淡いみたいなところとリンクしてくるんだ。いいっすねぇ!
- さて、ではオカダダさんの3冊目を紹介してもらいましょう。
小島信夫『寓話』(1987年出版)
okadada - 最後は小島信夫の『寓話』ですね。自分が持ってるのは、2006年くらいに作家の保坂和志が個人出版で再版したものなんですけど。サブテキストとして小島信夫と保坂和志の往復書簡『小説修業』(2001年出版)も持ってきました。小島信夫は全然読んでなかったんだけど、“小島信夫ヤバいよ”って言ってるひとがいっぱいいたから読んでみようと思って。『寓話』は後期に出た本なんですけど、もうね、ストーリー説明してもあんまり意味ないというか。まず小島信夫のところに、自分が昔に書いた『墓碑銘』(1960年出版)っていう小説に出てくる登場人物のモデルから手紙が来るんですよ、“『墓碑銘』に書いてるあれさ、ちょっと違うよね”みたく。それで書いた当時を思い出したり、みたいなことがダラダラ続く。ダラダラっていうか筋がないんですよね。そもそもそれが現実なのかどうかもわからない。この作品は新聞で連載したんですけど、連載中に作家の森敦から作品に対する意見の手紙が来たというくだりもあるんだけど、それも本当にそういうことがあったかどうかはわかんないんです。
髙城 - 虚実ないまぜなんですね。
okadada - “この感じはいったいなんなんだ”みたいなことがめっちゃあるんだけど、読ませるパワーはめちゃくちゃあって。で、この『小説修業』で保坂和志と自作について語ったりしてるので、いっしょに付箋貼りながら読んだんですけど、あとで読み返したら保坂和志のほうばっかりに付箋貼ってるわけです。でも、印象としては小島信夫の発言のほうが強く印象に残ってるっていう。小島信夫の文章は捉えどころがあまりにもないから、付箋を貼ることすらできないっていうか。ここがおもしろかったなっていうわかりやすいポイントがなくても、総体として見たらあきらかに小島信夫のほうがインパクトがあった。この本のあとがきに小島信夫への追悼文が書いてあるんですけど、そこに小島信夫の文字起こしをするボランティアを募ったときの話が載ってて。そのボランティアのひとたちが口々に“いつまででも文字起こししたいと思った”って言ってたみたいで、それはもちろん好きなひとたちだから当然なのかもしれないと思うんだけど、やっぱり小島の文学にはそういう力があるんじゃないかなって。それって……保坂和志いわく、物語って道にたとえたりよくするじゃないっすか。でも、小島信夫の小説っていうのは広大な草原のようなものであって、普通に道があると思って来たひとは“なんもないやん”ってなる。ただ、そこにはその空間があるということを文学で書ける作家はやっぱそうはいないってことが書かれてる。付箋の話もいっしょですよね。意味的には保坂和志のほうがおもしろいこと書いてるって思えるんだけど、小島信夫の書いてることはもうまったく説明できない。要は『何も共有していない者たちの共同体』の話でしたみたいな、意味を通すとつまらないのではっていう。しっかりフリとオチがあるショーじゃない方式じゃない形で……自分はクラブってショーを観るというよりも、その場所、空間自体が大事だと思ってるんで、場所でなにができるかって考えるときに、それって文学でいうとポストモダン的なものなのかなと。このあいだ、DJのMOODMANさんと本の話をずっとしゃべってて、小島信夫の話題になったんですけど、MOODMANさんも『寓話』が好きらしく“あれはディープハウスですよね”って言ってて。自分もそう思ってたから、なんかもう“ですよね!”って(笑)。
髙城 - 我が意を得たり!
okadada - ディープハウス的な、ああいうモワッとした感じっていうかな。ここでいう“ディープ”って、自分は場所に沈殿するニュアンスだと思ってて。音としてはモワモワしてるんだけど、その場所に沈殿するものがよりわかってくる、みたいなイメージ。なんかそういうイメージを小説で表現すると小島信夫的なものなのかなって思ったりします。
髙城 - えぇ、めちゃめちゃおもしろそう!
okadada - ぜひ読んでみてください。あと、こういう取っ掛かりがむずかしい本を読むときに読書会っていい機会だなっていうのは思ってて。友達とやってる読書会は、今日聞き手をしてるshakkeちゃんも含めて6人くらいでやってるんだけど、みんなでああだこうだ言いながら読むってのが、すごいリフレッシュになるなって。あとは締め切りというか、期日が決まってるから、全部は読み切れないかもだけどトライはできるっていうのがいいです。強制力がないと読めない本っていっぱいありますからね。
髙城 - その読書会は事前に読んでくるスタイルなんですか?
okadada - そうっすね。一度、梶井基次郎の『檸檬』(1925年出版)って短い物語をみんなで輪読しながら読んでいって、ひとつひとつの描写についてみんなで話してみるって形でやったんですけど、基本的には読んできて話す、みたいな。
髙城 - 最近やれてないけど、自分もRojiで『ビブリオ・ロジ』っていう本に関するイベントをやっていて。でも、そのイベントはビブリオバトル……書評合戦みたいな感じで、テーマをもとにゲストやお客さんに本を紹介してもらうという形式で。たしかに事前に読んできてもらって、その本について話すって形もおもしろそうだな。
- 読書会やって思うのは、全部読めてなくても意外とみんなの話を聞いてるだけでもおもしろいってことですね。こういう読み解きができるんだって、いろんなひとの視座が知れるだけでも読書会の意味はあるんじゃないかなっていう。
髙城 - たしかに。“読めそうなひとは読んできてください”ぐらいでもいいかもしれない。自分がなんでそういうイベントはじめようって思ったのかというと、Nonameってアメリカの女性アーティストがいるじゃないですか。彼女、ここ最近ロサンゼルスで『Noname Book Club』っていうブッククラブをはじめたんです。併せて、私設図書館みたいな、本を貸し借りできるラディカル・フッド・ライブラリーっていう場所も作って、そこで読書会をやってて。それ、すごくいいなと思って。『ビブリオ・ロジ』も最近はできてなかったから、タイミングを見て再開させたいですね。
- さて、おたがい3冊紹介してもらい終えたところで、今回の読書の話をおふたりが出演する『WALTZ』の話にうまく接続してもらって着地、という形が大変ありがたいなと思っていて……。
okadada - ハハハ、むずかしいお題やなぁ。でも、自分はさっきから“場所”って言ってるけど、『WALTZ』みたいなイベントって、それこそceroみたいなバンドやヒップホップのメンツ、DJとかいろんな音楽やってるひとが出るわけで、純然たるライブハウスやクラブのイベントとはまた違うじゃないですか。普段行かない場所に行くってだけでも、いろんなきっかけの端緒を掴めると思うんですよね。ただ観たいアーティストがいっぱい出るってだけのイベントじゃないほうが、そういう可能性っていうのは増えるので、その意味では広く来てほしいよなと思います。
髙城 - しかもパーティーって、日常とスペクトラム(連続的)な関係にあるものじゃないですか。自分はやっぱショー側の人間だから、どうしてもスタートがあってゴールがあるっていう直線的な時間軸で考えざるをえないんだけど、さっきの小島信夫の話を聞きながら、いかにしてスペクトラムなものとしてやっていけるのか……もうこれはずっと言ってる話で、バンドでいったらYOUR SONG IS GOODなんてそういうことをずっと実践してるバンドだと思うし、自分たちもやれることをやっていきたいなと思ってて。ceroでも去年のライブで、そういった時間軸を持ったショーのあり方に反発できないかといろいろ考えて、結果、なかなか演奏はじめないでずっと歩き回るっていう実験をして。それを中盤にもはさんだりして。ドラムと鍵盤だけがずっと演奏を続けて、ほかのひとたちはマイクから離れちゃう。それをしたらお客さんも自分たちもなんか別の視点を持てるんじゃないかなと思って。まぁ、ちょっと青臭いんだけどね。いわゆるショーの一般的な時間の流れになにかしら反発できるんじゃないかってのがひとつと、もうひとつは消化しきれないようなもの……“あれってなんだったんだろう”っていう記憶のほうが、案外“いいライブだったな”、“あの曲もこの曲もやってくれた”っていう記憶より強く印象に残るかなと思って。
okadada - いいっすねぇ。青臭いけど、いいですよ。
髙城 - そうなのよ。そういうこといちいちみんなやらないじゃん、思いついても。でも身体もあるし、できないことじゃない。思いつきでも、そういう青臭いことを40歳近いバンドがやってるっていうのも特殊でいいじゃないかと思って。抵抗としては全然弱々しいものなんだけども。結局、その試みが失敗したのか成功したのかはよくわかんなかったけど、でも個人的に得るものはあったと思ってて。スペクトラムに空気がつながってるということの生々しさみたいなものを見せたかったんですよね。パーティーってショーに比べてよりそういう側面があるし、その意味で『WALTZ』、すごく楽しみだなって思います。
okadada - 今年、はじめてリキッドルームで坂本慎太郎さんのライブを観たんですけど、めっちゃよかったなと思って。っていうのは、バイアスもあるかもしれないけど、ショーをしてるっていうより、バンド自体が、なんかこう、“いる”って感覚があって。“なんかあるな、あそこに”みたいな。髙城くんがさっき言ったような実験の先にもしかしたらそういう“なんかあるな”みたいな状態があるのかなと勝手に思ったっすね。坂本さんのライブは“箱バン”感覚……要はパブとかキャバレーのバンドみたいな、ずっとそこで演奏してる感じっていうかね。無理やりまとめちゃうと、“そういう感覚あるなぁ”って気持ちは自分も本を読んだり、クラブに行ってわかったことでもあるし、そう思えるのは豊かなことですよっていう。普段接してるものじゃないことのおもしろさが体験できるかもしれない。できないかもしれないけど、別にそれはどっちでもいいんじゃないかなっていう。とりあえず興味持ってみるってのは大事かもしれない。こんな感じでどうでしょう?
- なるほど、いい着地じゃないかと思います。おふたりともありがとうございました。『WALTZ』当日も楽しみにしています!
Info
WALTZ
11/18(土) at Spotify O-EAST / duo MUSIC EXCHANGE / AZUMAYA
OPEN : 13:00
START : 14:00
ADV :
¥6,000 (+1D)
U23 ¥4,500 (+1D)
DOOR :
¥7,000 (+1D)
- AtoZ -
< Spotify O-EAST >
LIVE:
BIM(Band Set)
cero
踊ってばかりの国
パソコン音楽クラブ
U-zhaan×環ROY×鎮座DOPENESS
yonawo
< Spotify O-EAST 3F >
DJ:
原島“ど真ん中”宙芳
クボタタケシ
okadada
サモハンキンポー
shakke-n-wardaa
Shoma fr,dambosound
ZEN-LA-ROCK
< duo MUSIC EXCHANGE >
LIVE:
a子
cherryboy function
JUMADIBA
LAUSBUB
Le Makeup
Peterparker69
Sound's Deli
<東間屋>
DJ:
FELINE
Gentoku
midori yamada (the hatch)
Skaai
uin
WASP
YAYA子
FLYER design :
Toshifumi Kiuchi (SLEEPINGTOKYO / LAID BUG)
■TICKET :
発売中! 販売期間 11/17(金) 23:59まで。
https://w.pia.jp/t/waltz-t/
WALTZ OFFICIAL GOODS
WALTZ L/S TEE
( design : LAID BUG)
color : WHT x L GREEN
size : M,L,XL,XXL
price : ¥5,000
model : miu
photo : Cho Ongo
■info:
Spotify O-EAST 03-5458-4681