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【インタビュー】ヒップホップを全世界に拡散した『Wild Style』監督が語る1980年のNYC | 「クリエイティビティには人を繋ぐ力がある」

2022年9月2日より、黎明期のヒップホップカルチャーをとりまくNYCの若者たちを描いた不朽の名作映画『WILD STYLE(ワイルド・スタイル) 』が全国公開される。

1983年に初公開された同作は「MCing」「DJing」「ブレイキン」「グラフィティ」の四大要素からなる<ヒップホップカルチャー>を全世界に紹介したことで知られている。

この「ヒップホップ四大要素」は、1960年代半ばから70年代初頭にかけて個別に発生しており、『WILD STYLE 』公開の数年前までは、アフリカ系やラテン系が多いニューヨークのブロンクス〜ハーレム周辺「直径7マイルのエリア」(※)で愛されるローカルカルチャーとしての色彩が強かった。また当時の「MCing+DJing」「ブレイキン」「グラフィティ」には独立したシーンが存在し、他の要素との間に共通点や関係性を見出す人間も少数だったと言われている。

「直径7マイルのエリア」のイメージ。(Joe Conzo『BORN IN THE BRONX』より。筆者私物を撮影)

しかし80年代に入ると、四つのカルチャーは「ヒップホップ」というひとつのカルチャーにまとめあげられ、わずか数年のうちに全世界に広がっていく。大きなきっかけとなったのは、四大要素のプレーヤーである7マイルエリアの若者とロウワー・マンハッタン(=マンハッタン最南部)を拠点に活動する白人アーティストの急接近だった。それまで距離的、文化的に断絶していた若者たちの間で交流が活発化した結果、1981〜83年のロウワー・マンハッタンでは、四大要素を一堂に集めて紹介するイベントが多数開催されている。

この断絶を超えたアクションこそが、ヒップホップカルチャーを加速させたと言って間違いないだろう。そして今回公開される『Wild Style』もまた、そうした流れの中で誕生した作品だ。

80年代初頭、7マイルエリアとロウワー・マンハッタンの若者たちは、どのようにリンクしていったのだろうか。いかにして四大要素はヒップホップとなり、全世界へと広がっていったのだろうか。今回は『Wild  Style 』を監督したチャーリー・エーハーン氏に、ロウワー・マンハッタン・サイドから見たヒップホップ大ブレイク前夜のニューヨークについて話を訊いた。

「直径7マイルのエリア」:ヒップホップ史学者ジェフ・チャンによれば、初期の四大要素はブロンクスの中央に位置する公園「クロトナ・パーク」を中心点とする直径7マイル(約11.2km)サークルの内側で盛り上がっていたという。反時計回りに東にアフリカ・バンバータ率いる<Zulu Nation>の地元ブロンクス・リヴァー団地、北のエデンウォルド団地とザ・ヴァレー地区ではブラザーズ・ディスコやファンキー4+1モアが活動し、地下鉄2番線と5番線の車庫がグラフィティのスポットに。西にはDJクールハークの地元であるセジウィック・アベニュー。ハーレム川を隔てて、マンハッタン島最北端にはグラフィティ・スポットである操車場「ゴーストヤード(= 207th Street Repair Shop)」。付近にインウッドやワシントンハイツがあり、そのさらに南にはハーレムがある。

マンハッタン島のディストリクト・マップ。北から「アッパーマンハッタン」(黄緑)。アッパー・マンハッタンとブロンクスを南北に分断する「クロスブロンクス・エクスプレスウェイ」 。セントラルパーク(緑)の東西に「アッパーイースト」(茶)と「アッパーウエスト」エリア(ネイビー)。その南に4区画からなる「ミッドタウン」。さらに南が「ロウワー・マンハッタン」。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Manhattan_districts.png

取材・構成:吉田大

1. 70年代末、NYアート・シーンから離れた場所でスタイルを模索

家賃収入より火災保険受給を選んだ悪徳大家たちはギャングを雇い、自らの物件に放火させていた。(Joe Conzo『BORN INTHE BRONX』より。筆者私物を撮影)

まずは「7マイルエリア」と他のエリアとの間に断絶が生まれた経緯について説明しておこう。

1970年代のNYでは、裕福な白人のコミュニティと貧しいアフリカ系やプエルト・リコ、ドミニカなどにルーツを持つラテン系のコミュニティが分断されていた。原因となったのは1950年代に高速道路「クロスブロンクス・エクスプレスウェイ」建設を目的に行われた地上げだった。一方的に家を追い出された人々は、やむなくサウス・ブロンクスやブルックリン東部の巨大公営団地「プロジェクト」へと引っ越していく。

60年代に入り、郊外にマイホームを購入した中産階級の白人たちがプロジェクトや周辺地域から離れると、ブロンクスとブルックリンにはアフリカ系やラテン系の貧困層が取り残される形に。当然のごとく税収は目減りし、失業率も上がっていく。家賃を回収できなくなった悪徳大家たちは火災保険目当てに自らの物件に放火を始め、とりわけサウスブロンクス一帯は瓦礫の街に。治安は悪化の一途をたどっていった。

政治家と役人は、こうした悲惨な状況を放置し、それどころか「生活を向上させる気がない貧しいマイノリティは"静観"する」として、地域の予算を徹底的に削っていく。他方でハリウッドは『バッジ373』(1973年)、『ウォーリアーズ』(1979)、『アパッチ砦・ブロンクス』(1981年)といった作品でアフリカ系〜ラテン系住民が暮らす場所をひたすら「暴力と貧困が蔓延する野蛮な場所」として描き続けた。根底にアフリカンやラティーノに対する偏見や差別意識があったことは言うまでもない。

NY市の「静観」により、市民生活に様々な障害が生まれた。(Joe Conzo『BORN INTHE BRONX』より。筆者私物を撮影)

1970年代初頭、白人主導のアメリカ社会から一方的に切り離された7マイルエリアの住民は苦境に立たされていた。しかし皮肉なことに、この官民両面からのネグレクトこそが四大要素を生み出す環境を作り上げたとも言えるだろう。警察をはじめとする役人の干渉、そして白人中心主義的な考えと距離を置くことになったアフリカ系やラテン系の若者たちは、そのクリエイティビティを爆発させ、次々に新たなカルチャーを生み出していく。

一方、7マイルエリアの若者がストリートで生み出したフレッシュなカルチャーは、遠く離れたロウワー・マンハッタンで暮らす白人のアーティストやパンクス、そしてセントラル・パーク周辺にいたポスト・ヒッピーの若者の心をつかんでいく。時は1973年。ヒップホップ前夜のニューヨークに芸術を志す白人青年の姿があった。のちに傑作『Wild Style』を監督するチャーリー・エーハーンだ。

- 70年代のロウワー・マンハッタンはどんな様子でしたか?

チャーリー - 73年に移住してきた時は、イースト・ヴィレッジ(※1)に住んでました。通りを挟んだ向かい側にはモーターサイクル・ギャングの<ヘルズ・エンジェルス>(※2)がいましたね。街には長髪の人も多くて、まだまだ60年代の価値観が生きている時代でした。

- 当時のロウワー・マンハッタンでは、どんなサブカルチャーが流行っていたのでしょうか?

チャーリー - ちょうどNYパンクが盛り上がり始めて、New York Dolls(※3)というバンドが注目を集めていました。彼らは女装したり、網タイツやプラットフォーム・シューズを身につけたり、ファッション的にも新しかった。ダウンタウン(=ロウワー・マンハッタン)のストリートで新しく発生していた文化を反映していた様に思います。

1973 年にオランダのオランダの公共放送AVRO TV の番組「TopPop」に出演した際のNew York Dolls。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:New_York_Dolls_-_TopPop_1973_03.png

- 当時のチャーリーさんはアンダーグラウンドな映像アーティストでした。どんな活動をしていたのでしょうか?

チャーリー - 実験的な映像を作って、低所得者向けの公共住宅「(プロジェクト(※4)」で上映していました。NYのアートシーンから遠く離れた場所でクリエイティブなことに挑戦したいと考えていたからです。

- ニューヨークのカンフーファンの間で話題となった映画『The Deadly Art of Survival 』を撮影していますよね。

チャーリー - 当時の私は、映画の上映を通じて住民たちと関係性を築きながら、新たな表現のスタイルを模索していました。そしてある時に地元のキッズから「カンフー映画を作ってほしい」という声が上がったんです。カンフースクール(※5)に通っている子達だったみたいですね。私は彼らと一緒にスーパー8mmフィルムのカメラで『ザ・デッドリー・アート・オブ・サバイバル(殺人的護身術)(※6)』という映画を作りました。制作には1年ほどかかりました。

『The Deadly Art of Survival 』がローワーイーストサイドで公開された際のポスター

- そこから<Colab>というアート団体の展覧会に映像を出品されています。

チャーリー - そうですね。1978年にColab>(※7)を結成して、アートの展覧会を開催するようになりました。大きなターニングポイントとなったのは、1980年に タイムズ・スクエアで行ったアートショー(※8)です。のちに有名になるジャン・ミシェル・バスキアやキース・へリングなど100人以上のアーティストを呼びました。マッサージパーラー(※9)をギャラリーに変換して会場にしたんですよ。

1980年6月に1ヶ月間開催された「The Times Squere Show」のフライヤー

- アートシーンから距離がある場所で開催した、と。この「The Times Squere Show」には、グラフィティ・ライターも参加していたと聞いています

チャーリー - ストリートライフとアートを融合したようなイベントだったので、ブロンクスやブルックリンなど様々なエリアの人たちがやってきました。音楽的にもパンクバンドだけではなく、ヒップホップのアーティストも参加していましたね。(グラフィティ・ライターでもあった)Fab 5 Freddy(※10)とも、ここで出会いました。つまりこの展覧会をきっかけに『Wild Style』の企画が始まったのです。

- Freddyの第一印象を教えて欲しいです。

チャーリー - 濃いサングラスをかけていて、背が高く、 ダークスキンだったので、人がたくさんいる会場でも凄く目立っていたのを覚えています。私と彼はすぐに意気投合しました。Freddyが『The Deadly Art of Survival 』を知っていたからです。 

- チャーリーさんは『The Deadly Art of Survival』の撮影をきっかけに『Wild Style』で主人公”ZORO”を演じたグラフィティライターのLEEを知ったと聞きました。

チャーリー - あの映画は、とあるハンドボールコート(※11)でも撮影したんですが、その場所に『Wild Style』の主役を演じたLEE(※12)のグラフィティがあったんです。とてもカラフルで素晴らしい作品だったので、とにかく作者に会ってみたいと思いましたね。

1978 年にLEEがローワーイーストサイドのハンドボール・コートに描いた壁画。映画『The Deadly Art of Survival 』にも登場する。(Howard The Duck, 1978, Whole Handball Court, Jr Highschool Corlears #56 Lower East Side NYC - Photo by Martha Cooper) https://www.leequinones.com/walls

- でも、中々会えなかった。

チャーリー - LEEは当時のグラフィティライターの中でも特に秘密主義的で、絶対に正体を明かしたくないと考えているタイプだったんですよ。 でもFreddyと話しているうちに、彼がLEEと一緒に動いていることが分かった。私はずっとLEEに会って、一緒に映像を作りたいと思っていたので「もし明日連れてきてくれるなら撮影する」と提案してみたんです。 次の日にFreddyはLEEを連れてきて、二人でタイムズ・スクエア周辺で真昼間だというのに巨大なピースを描きました。もちろん許可なんて取っておらず、完全にイリーガルな作品でした。 そこから「こういうノリで映画も作ってみないか」という話になったんです。

※1.イースト・ヴィレッジ:ニューヨーク市のロウワー・マンハッタン北東部。20世紀後半からアートシーンの中心となっていた。70年代には多くの中古レコード店やコミック・ブックの店があり、若者に人気の街だった。路上には、まだ非合法だった大麻を堂々と吸う者やヘロインの売人もいたという。当時は現在よりも治安が悪く、強盗傷害、銃撃事件も少なくなかった。

※2.ヘルズ・エンジェルス/Hells Angels:正式には「The Hells Angels Motorcycle Club」。1948年にLAで結成された世界で最も有名なバイカー・ギャング。60 年代にサンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区で盛り上がっていたカウンター・カルチャー運動に参加して知名度を高めた。現在も世界の59か国に467の支部があり、イースト・ヴィレッジにもクラブハウスを所有している。

※3.ニューヨークドールズ/New York Dolls:1971年にジョニー・サンダースがNYで結成した最初期のパンク・バンド。暴力的なロックンロールと過激な言動で知られ、1970年代半ばに始まるUKパンクのムーブメントに強い影響を与えた。長髪と中性的なファッションに身を包んだグラムロック風のルックスだった。

※4.プロジェクト:チャーリーはローワーイースト・サイド(マンハッタン南東部)にある「アルフレッド・E・スミス住宅」に通っていた。ブルックリン・ブリッジとマンハッタン・ブリッジの間に位置し、対岸にはブルックリンを臨む。

※5.カンフースクール:当時のマンハッタン42丁目通りの7〜8番街周辺の映画館では、格安の入場料でカンフー映画(とポルノ映画)が見られたため、暇を持て余した若者の間で大ブームが起こっていた。また70年代のアメリカにおいて、香港産カンフー映画は白人文化に対するカウンターカルチャーとも捉えられていた。アフリカ系やラテン系のキッズの中には、カンフーを使って権力と戦う誇り高いアジア人の姿と自らを重ね合わせる者、実際にカンフーを習う者も少なくなかったという。こうしたカンフー世代の若者たちはヒップホップカルチャーの担い手ともなっていく。

※6.ザ・デッドリー・アート・オブ・サバイバル(殺人的護身術)/The Deadly Art of Survival :1979年に公開されたチャーリー・エイハーン監督の映画。主演のNathan Ingram(ネイサン・イングラム)は、ロウワー・マンハッタンに位置するチャイナタウンで70年代初頭から90 年代半ばにかけて悪名を轟かせた香港〜台湾系ギャング<Ghost Shadows(ゴースト・シャドウズ)>唯一のアフリカ系メンバーだったが、白鶴拳や空手を学んだ武道家でもあり、カンフーと武術のスクールを運営していた。ちなみに『Wild Style』冒頭で主人公”ZORO”を追うヴァンダル・スクワッド(=NY市警グラフィティ特捜班)は、このネイサンと伝説的グラフィティ・ライターのMichael "IZ THE WIZ" Martinの二人が演じている。

※7.コラブ/Colab:ニューヨークのアート団体。既存のアート・シーンやギャラリーとは異なる場所でクリエイティブな活動を展開していた。メンバーが1 回限りのグループ・ショーを企画し、独自のスタジオや一時的な会場で開催していたことで知られており「The Times Squere Show」もその一つ。アーティスト主導で、レーガン大統領による緊縮政策や核武装、ニューヨークの住宅危機とジェントリフィケーションといったコンシャスなテーマを扱った作品の制作や言論活動も行なっていた。

※8.アートショー:1980年の夏に行われた「The Times Squere Show」。ジャン・ミシェル・バスキア、 ケニー・シャーフ、キース・ヘリング、ジェニー・ホルツァー、チャーリー・エーハーン、ファブ5フレディなど、ストリート・アートやロウブロウ・アートの作家が参加して注目を集めた。1日 24 時間、30 日間オープンアクセスと、時間を選ばずに誰もが参加できる自由なアート・ショーだったこともあり、グラフィティ・ライターを含む多くのクリエイターが展示を行った。「階級や文化の断絶を超越した最初の美術展」と言われている。 

※9.マッサージ・パーラー:アメリカで「マッサージパーラー」といえば、一般的には性風俗店を指す。「The Times Squere Show」の会場となったマッサージパーラーは、ポルノ映画館やのぞき部屋が多い歓楽街だったタイムズ スクエア周辺でも、とりわけガラが悪いとされていた41丁目通りと7 番街の角にあった。

※10.ファブ5フレディ/FAB 5 FREDDY:本名フレッド・ブラザウェイト。1959年ブルックリン出身のヴィジュアル・アーティストで映画製作者。70年代にグラフィティのシーンに飛び込み、LEEを擁する名門クルー<Fabulous 5>に加入。やがて白人セレブリティに接近し、7マイルエリアのストリート・カルチャーとロウワー・マンハッタンのアート〜パンク・シーンを繋ぐ架け橋となる。全世界にヒップホップカルチャーを知らしめた仕掛け人であり、商品化を加速させた人物でもある。『Wild Style』では、原案を手がけ、ニューウェーブ・バンド「Blondie」のクリス・スタインと共同で音楽も担当。劇中ではグラフィティやラップのビジネス化を狙うプロモーターPHADEを演じた。

※11.ハンドボール・コート:2007年に閉校したコーリアー・ジュニア・ハイスクール56のハンドボールコート。LEEは、1978 年に「Howard The Duck」、翌年「Graffiti 1979」、三番目に「The Lion's Den」というタイトルの壁画を制作している。ちなみに「ハンドボール」とは「ウォール・ハンドボール」のこと。ラケットを使わないスカッシュのような競技で、壁に向かってゴムボールを手で打ち合う。ニューヨークは競技の中心地であり、ストリート・ハンドボールのコートが数多く存在する。

※12.LEE/リー:本名リー・ジョージ・キュノネス。1960 年プエルトリコ生まれ、ローワーイースト・サイド育ちのグラフィティ・ライターでアーティスト。70 年代にグラフィティを開始。1980年の時点で「NYの地下鉄グラフィティのキング」と評されていた。その後、アーティストとしても成功し、現在はニューヨークのブルックリン在住。Nathan Ingram(ネイサン・イングラム)の道場に通っていたという話も。

2. 1980年、7マイルエリアとロウワー・マンハッタンの交差は始まっていた

セントラルパーク直下を貫く地下鉄の建設現場の周囲に設置された金属壁は「Zoo York Wall」と呼ばれていた。(Norman Mailer『The Faith of Graffiti』より。筆者私物を撮影)

チャーリー・エイハーンがカンフー映画を撮影していた70年代後半、セントラルパーク周辺でも人種の壁を超えた交流やユースカルチャーのクロスオーヴァーが活発化していた。

その象徴というべき人物が『Wild Style』のタイトルレターを担当し、劇中でZ-ROCを演じたグラフィティライターのZEPHYR(※13)だ。

ZEPHYRはアッパーイースト・サイドで暮らすユダヤ人だったが、LSD-OM(オウム)率いるブルックリンの人種混成グラフィティクルー<The Rebels>のメンバーであり、アフリカ系のライターでスパイク・リー監督の弟でもあったSHADOWとも繋がりがあった。また初期のZEPHYRを語る上で忘れてはならないのが、セントラルパークにあるナウムバーグ野外音楽堂、通称「バンドシェル」周辺にいたポストヒッピーのトライブ「パーキー」、そしてグラフィティとスケートボードのクルー<Soul Artists of Zoo York(※14)>との関わりだ

アフリカ系のグラフィティライターだったALIによって結成された<Soul Artists of Zoo York>は1970年代半ばからバンドシェル周辺やセントラルパークの真下を走る地下鉄トンネル「Zoo York」(※15)でハングアウトしていた。そのメンバーには、アンディ・ケスラー(※16)、パペット・ヘッド(※17)といったリアルなスケーターもおり、当時のバンドシェル周辺は、ポスト・ヒッピーやグラフィティ・ライターが集うコミューン的な空間であると同時に「東のDOGTOWN(※18)」ともいうべきスケート・スポットでもあったという。

1979年に発行された<Soul Artists of Zoo York>のZINE「ZOO YORK MAGAZINE」。グラフィティはスケートはもちろん政治的テーマも扱っていたのはポスト・ヒッピーの若者ならでは。

同じく「ZOO YORK MAGAZINE」から。アンディ・ケスラーの姿も

人種的にも文化的にも多様だったバンドシェルに少年時代から通っていたZEPHYRは、<Soul Artists of Zoo York>のOGはもちろん、パーキー・シーンの人々からも強い影響を受けたのだろう。1975年から伝説のスケート集団<Z-Boys=Zephyr Competition Team>に由来するライターネームを名乗るようになり、ヒッピー周辺のカルチャーやスケートボード・カルチャーから影響を受けたスタイル(※19)で存在感を発揮していく。

1980年代初頭、合法的な表現活動にも力を入れるようになっていた<Soul Artistss of Zoo York>、そして当時の地下鉄グラフィティ・シーンの第一線で活躍していたZEPHYR、BILROCK161、REVOLT、MIN 1、HAZEを擁するグラフィティ・クルー<RTW(Rolling Thuder Writers)>を含むパーキー周辺のグラフィティ・シーンもまたロウワー・マンハッタンの若者たちと交わっていく。

時を同じくして、アフリカ系住民の間で下火になりつつあったブレイキンは、<Rock Steady Crew>(※20)を率いるCrazy Legs(※21)をはじめとするプエルトリカンのB-Boy(=ブレイクダンサー)たちの尽力によりルネッサンス期を迎えつつあった。またディスコブームに客を奪われつつあったアフリカ系のMCやDJたちは、イベントのたびに巨大なサウンドシステムを設営しなければならないジャム〜ブロック・パーティー形式での活動に限界を感じ、一晩に複数回のステージをこなすことが可能なクラブでの営業を志向するようになっていく。

80年代の足音が聞こえて来た頃、四大要素のプレーヤーたちは「そろそろ外の世界に知られても良いのではないか?」と考え始めていた。一方、ロウアー・マンハッタンに目を向ければ、徐々に実像が見えてきた「7マイルのエリア」ストリート・カルチャーと実際に関わる者が現れ始めていた。

ブレイクビーツの原型となるテクニック「メリーゴーランド」を発明したDJクール・ハークがイベントで使っていたサウンドシステム。https://www.christies.com/features/dj-kool-herc-birth-of-hip-hop-12361-1.aspx?sc_lang=en

- 1980年の時点で、ロウアー・マンハッタンとブロンクス〜アッパー・マンハッタンの間には、様々な断絶があったと思います。しかしクリエイティブな若者の間では積極的な交流が始まっていた。当時の雰囲気を教えて欲しいです。

チャーリー - 先ほどお話ししたタイムズ・スクエアのイベントには、非常にクリエイティブなアーティスト達が沢山集まって来ていましたが、彼らの多くはブロンクスに対して魅力を感じていましたね。すでに『ブロンクスは危険で貧しい場所だけど、とにかく面白いストリートカルチャーが生まれている』という噂が広がっていたんです。

- 当時のロウワー・マンハッタンでは、チャーリーさんやキース・ヘリングのようなアーティスト、ヘンリー・シャルファント(※22)やマーサ・クーパー(※23)のようなフォトグラファー、クール・レディ・ブルー(※24)のようなパンクス、ZEPHYRのようなパーキーが、こぞってヒップホップに熱を上げていたと聞いてます。

チャーリー - 色んな人の名前が出ましたけど、常にみんなが一緒にいたわけではないんですよ。やはりダウンタウン(=ロウワー・マンハッタン)の中でも、細かくシーンが分かれていましたから。ずっとヒップホップにまつわる出来事が起きているわけでは無かったし、いつも同じ人たちが勢揃いしているという感じでもありませんでした。

- ロウワー・マンハッタンの異なるシーンで散発的にイベントが行われていた、と。当たり前だけど、誰もが全てを目撃してたわけではないってことですね。

チャーリー - 当時印象に残ってることを語るとすれば、1981年にLADY PINK(※25)が LEEのために開いたバースデー・パーティーでしょうか。そこにはマーサ・クーパーがいて、写真を撮っていましたね。その時に<Rock Steady Crew> のB-Boyがやってきて、私の目の前で踊ってくれたんですよ。

- 強い衝撃を受けたと聞いてます

チャーリー - ええ。その時に「この子達をB-Boyスターとして映画に出演させよう」と決心しました。 でも、そこにはバスキアだったり、ヘンリー・シャルファントがいたわけではない(笑)。でもパーティーの会場はFUTURA(※26)のスタジオだったりもした。つまり別のシーンにいる人間ではあるけど、そういう「繋がり」みたいな関係はあったりしたんです。

- 他にも7マイルエリアとロウワー・マンハッタンの接点となった重要なスポット、あるいは印象に残っているイベントを教えて欲しいです。

チャーリー - ブロンクスサイドで言うと「ファッション・モーダ」 (※27)というスポットがありました。そこに行くことはありましたね。

Fashion Modaにおいてグラフィティ・ライターのCRASHが開催した展覧会『Graffiti Art Success for America』のフライヤー

チャーリー - あとは映画に出演してくれるパフォーマーを探すために通っていたストリート・ジャム(※28)ですね。分かりやすくいうと、公園などでやっている野外イベントなのですが、本当に多くのジャムに足を運びました。というのも当時はそういった地元シーンに密着した音楽イベントに行かないとアーティストに出会うことが出来なかったんですよ。

- 当時行ったジャムやパーティーで印象的な出来事ってありましたか?

チャーリー - Freddyと一緒に行ったイベント(※29)が記憶に残っています。会場には『Wild Style』の出演者でもあるBusy Bee(※30)がいたのですが、最初は私のことを警察官だと思っていたようですね。

- 白人が全く足を踏み入れないエリアだったから警戒されたんですね。

チャーリー - Busy Beeに話しかけられたので「僕は映像作家で、君たちについての映画を作りたいんだ」と言ったんですよ。そうしたら彼はいきなり肩に腕を回して来てね。僕をステージに上げて『こいつはチャーリー!俺たちは一緒にラップシーンについての映画を作るんだ!』と宣言した。私が声をかける前に勝手に自分を映画にキャスティングしたんです(笑)。『Wild Style』のキャスティングの大半はそんなノリで決まっていきました。

- 当時のブルックリンのことも聞きたいです。「ヒップホップ」的なシーンはなかったのでしょうか?また共にアフリカ系の住民が多かったブロンクスとブルックリンの間には断絶があったのでしょうか?

チャーリー - 当時ブルックリンにもヒップホップ的なものは存在していた(※31)ようですね。ただ当時ブルックリンに行くのは非常に危険な行為だとされていました。もちろん私が映画やジャムのために通っていたブロンクスも危険な場所として知られていたんですけどね。でも、そこにいたブロンクスの人たちからすると、ブルックリンこそが危険な場所だったんですよ。お互いに「あんな恐ろしい場所にはとても行けないよ」と言い合ってる感じでした。だから行き来はかなり少なかったですね。

※13.ZEPHYR/ゼファー:NYグラフィティ・シーンの代表する伝説的なグラフィティ・ライター。初期は”KANE”と名乗っていたが、1975年から”ZEPHYR”として活動するようになる。80年代初頭まで<TR(THE REBELS)><RTW(The Rolling Thunder Writers)>の主要ライターとして活躍。また79年には<Soul Artists of Zoo York>のメンバーになっていた。80年代前半からは「FUN Gallery」や「51X」といったグラフィティ専門ギャラリーで個展を開催。『Wild Style』ではZ-Rocを演じたほか、タイトル・レターも担当している。

※14.Soul Artists of Zoo York/ソウル・アーティスツ・オブ・ズーヨーク:<Soul Artists>とも。70年代前半にグラフィティ・ライターでラッパーでもあったALIがFUTURA、COCA82と1972年に設立したグラフィティとスケートボードのクルー。のちにZEPHYR、REVOLT、HAZEらも所属。1979 年 5 月には政治やコミュニティについて扱ったコンシャスなZine「Zoo York Magazine」を発行するなど、多岐にわたりクリエイティブな活動を行っていた。スケートとヒップホップをリンクさせて大ブレイクした93年設立のスケート・ブランド<Zoo York>に大きな影響を与え、その名の由来ともなっている。

※15.Zoo York/ズーヨーク:セントラル パーク動物園のエリアの下を走る地下鉄のトンネル。建設中は夜間に簡単に忍び込むことができたため、グラフィティ・ライターたちの溜まり場となっていた。「Zoo York」と命名したのは<Soul Artists of Zoo York>の創設者ALI。

※16.アンディ・ケスラー/Andy KesslerSoul Artists of Zoo Yorkのメンバーでスケート部門のリーダー的存在。ニューヨークのあらゆる場所で滑りまくっていた。盗んだ厚いベニヤ板を街や公園にある構造物に立てかけてスケート用スロープを作ったり、即席のクォーターパイプをハンドボールコートの壁に設置してウォールライドするなどのクリエイティブなスタイルを提示した。長年にわたりシーンに貢献したが、2009年に不慮の事故で死去。生前のアンディが建設に尽力したNYリバーサイド・パークのスケート施設はリニューアルを機に「Andy Kessler Skatepark」と改名される予定。

※17.パペット・ヘッド/Puppet Head(※):本名ジェイミー・アフマド/Jaime Affoumado a.k.a RUST1。Soul Artists of Zoo Yorkのスケーターで、<RTW>のメンバーでもあった。現在はNYでジャズ・バーを経営する傍らレーベルを運営。自らもドラマーとして活動している。「Hung Fut」カンフーの師範としての顔も。

※18.DOGTOWN/ドッグタウン:1970年代のアメリカ西海岸ヴェニス・ビーチにあった廃墟と化していた一画。サーフィン、スケート、グラフィティ、そしてストリート・ギャングといった西海岸ユースカルチャーの中心地だった。ここで70年代半ばに結成されたサーフ・ショップ「ゼファー」のスケート・チーム「Z-BOYS」は、サーフィンの動きを取り入れたアグレッシブなスタイル、水を抜いたプールでのハードコアなライディングでスケートボード界に革命を起こした。

※19.ヒッピー周辺のカルチャーやスケートボード・カルチャーから影響を受けたスタイル:ZEPHYRはアンダーグラウンドコミック作家のヴォーン・ボーデ、サイケデリック・ポスター作家のヴィクター・モスコソやリック・グリフィン、ポップ・アーティストのピーター・マックス、そして70年代にDOGTOWNのデッキをデザインしていたウエス・ハンプストンからの影響を公言している。

※20.Rock Steady Crew/ロック・ステディ・クルー:1977年にブロンクスでJimmy DeeとJimmy Leeによって結成されたブレイキンのクルー。1979年ごろ一時的に動きが鈍ったものの、Crazy Legsに代替わりしたことで全盛期に突入。ライターであるDONDIやSHY147も加わり、やがて巨大な「ヒップホップ」クルーへと変容していった。

※21.Crazy Legs/クレイジー・レッグス:​​ブロンクス出身のプエルトリコ系アメリカ人。7マイルエリアで下火になりかけていたブレイキン〜ヒップホップのシーンを再活性化し、さらに大きく発展させた。NY中を駆け回り、ブレイカーを見つけ出してはバトルを挑むことでシーンを盛り上げていった。

※22.ヘンリー・シャルファント:フォトグラファー、ヴィデオグラファー。初期のNYグラフィティ・シーンを追ったドキュメンタリー映画『Style Wars』のプロデューサーであり、グラフィティ写真集『Subway Art』『Spraycan Art』を通じて、グラフィティ撮影のスタンダードを作り上げた。79年から95年まで自分のスタジオを開放して、世界中からやってきたグラフィティ・ライターの情報交換の場にしていた。

インタビュー→https://fnmnl.tv/2021/03/12/120452

※23.クール・レディ・ブルー/KOOL LADY BLUE:本名Ruza Blue。UK出身の女性パンクス。休暇で訪れたNYでマルコム・マクラーレンと出会い、アシスタントに。四大要素からパンクと通じるDIYスピリットを感じとり、とりわけレコードとターンテーブルで既存の楽曲を再構築するDJingに惹かれていく。1981年からロウアー・マンハッタンにヒップホップを伝えるべく、クラブ・イベント”Wheel Of Steel”をスタート。さらに1982年11月には <Rock Steady Crew>、DONDI、FUTURA、RAMMELLZEE、グランドミキサー DST、アフリカ・バンバータらと英仏を巡る2週間のヒップホップツアー「ニューヨークシティ・ラップツアー」を企画し、さらにカズ・クズイとフラン・クズイと日本への『Wild Style』ツアーを実現するなど、ヒップホップカルチャーをヨーロッパや日本に持ち込んだ超重要人物。

※24.LADY PINK/レディ・ピンク:『Wild Style』で”ROSE”を演じたエクアドル系アメリカ人のグラフィティ・ライター。1980年代初頭のニューヨーク市の地下鉄グラフィティ・シーンで活躍した最初の女性の1人だった。グラフィティ・クルー<TC5 (The Cool 5) >と <TPA (The Public Animals)>のメンバーであり、1980年には女性のメンバーのみでグラフィティ・クルー<Ladies of the Arts/レディース オブ ジ アーツ>を結成したことでも知られる。パートナーはブルックリン・ブリッジをメイクしたグラフィティ・ライターのSMITH。

※25.マーサ・クーパー/Martha Cooper:1970年代からグラフィティのシーンを撮影してきた最も偉大なヒップホップフォト・ジャーナリスト。1984年に『Style Wars』プロデューサーでフォトグラファーのヘンリー・シャルファントと、世界で最も読まれたグラフィティ写真集『Subway Art』を出版。2004年には初期のHip Hopの歴史を豊富なビジュアルを交えつつ振り返ったオールドスクール・ファン必読書『Hip Hop File』を出版して高い評価を集めた。

※26.FUTURA/フューチュラ:ニューヨークのグラフィティ・ライター。1970年代初頭からグラフィティを始めて<The Soul Artists of Zoo York>のメンバーに。他のライターとは一線を画す抽象的な表現で知られ、早くからロウワー・マンハッタンのギャラリストからの注目を集めるようになる。相棒であるALIがグラフィティの最中に引火事故に遭ったことをきっかけにグラフィティのシーンを離れて軍に入隊していたが、やがて復帰。80年代初頭には『Wild Style』で記者ヴァージニアを演じたパティ・アスターが設立した「ファン・ギャラリー」において、キース・ヘリング、ジャン=ミシェル・バスキア、リチャード・ハンブルトン、ケニー・シャーフらと展示を行った。The Clashの音源にアートワークを提供していることでも知られ、アルバム『Combat Rock』収録の" Overpowered by Funk "では荒削りなラップを披露している。

※27.ファッション・モーダ/Fashion Moda:正式には英語、中国語、スペイン語、ロシア語で「ファッション」を併記した「Fashion 时髦 Moda МОДА」。1978年にサウスブロンクスで設立されたオルタナティブ・アートスペース。アーティストが壁にグラフィティを描くことを許可した初めてのギャラリーとして知られている。オープン当初はグラフィティ・ライターや地元民には全く知られてなかったが、チャーリーがグラフィティ・ライターのCRASH とDAZEを連れて行ったことを機にグラフィティの重要スポットに。1980年10月には、初の「グラフィティ・アート」ショー『Graffiti Art Success for America(通称GAS)』を開催している。ちなみに設立者の一人で<COLAB>のメンバーでもあった芸術家のジョー・ルイスは『Wild Style』にチョイ役で出演している。

※28.ストリート・ジャム(※):コミュニティの状況を憂慮したギャングたちが1971年12月8日に「ホー・アベニュー和平会議」で結んだ休戦協定のあと、元ギャングの青年たちは音楽イベントを開催しようとする。しかしディスコの多くがギャング抗争によって閉店に追い込まれていたため、公園やストリートを会場としてストリート・ジャム〜パーク・ジャムと呼ばれる地域密着型の野外イベントを行うようになった。地元住民にとってはディスコよりもはるかに敷居が低かったが、地元ギャングや元メンバーが主催していることも多く、エリア外に住む者は足を踏み入れにくい場所だった。

※29.あるイベント: ノース・ブロンクスのザ・ヴァレー地区で開催されたBusy BeeとDJ Breakoutのパーティーだと言われている。

※30.ビジー・ビー/Busy Bee:Busy Bee Starski、Chief Rocker Busy Beeとも。1977年にキャリアをスタートし、現在もラップを続けるリヴィング・レジェンド。コミカルなリリックをスタイルとしており、『Wild Style』に登場するBusy Beeそのままのチャーミングな人らしい。『Wild Style』劇中で得意げにベッドにぶちまけているのは全て1ドル札。

※31.ブルックリンにもHip Hop的なものは存在していた:例えばブルックリン出身のディスコDJグランドマスター・フラワーズ(Grandmaster Flowers)は、グランドマスター・フラッシュやアフリカ・バンバータといったオリジナル世代のHIP HOP DJに影響を与えたと言われている。またブレイキンに「トップロック」として取り入れられているダンス「アップロック」はブルックリンのギャングが生み出したウォー・ダンスが原型。さらに”DINO NOD”と”WICKED GARY”が70年代に結成した初のグラフィティ専門クルー<EX-Vandals>や”LSD-OM”と”FLINT”が結成した人種混成グラフィティ・クルー<The Rebels>はブルックリンが発祥の地

3. 1981年、『Wild Style』前夜に「ヒップホップ」は存在していたのか?

ブロンクスの「The Dixie Club」で踊る記者ヴァージニア役のパティ・アスター。既存のアートシーンへのカウンターとして、グラフィティ・アートやストリート・アートを扱う画廊「ファン・ギャラリー」を設立したことでも知られている。Patti Astor dances with Crazy Legs in Wild Style 1981 photo by Marty Cooper

7マイルエリアの若者が生み出した四つのストリートカルチャーが関連付けられ、「ヒップホップ」と呼ばれるようになったのは、70年代末から80年代初頭にかけてのことだと言われている。順を追って解説していこう。

まず1978年にFurious Five(※32)Keef Cowboy(※33)とディスコDJでラッパーだったLovebug Starski(※34)が「ヒップホップ」というフレーズを生み出し、それが二人が所属していたクルー<Zulu Nation>を率いるAfrika Bambaataa(※35)に伝わる。

1981年に入ると7マイルエリアをとりまくジャーナリストたち(言うまでもないことだが大半は白人だった)の動きが活発化していく。1月にマイケル・ホルマン(※36)が「ヒップホップ」というワードをメディア上で初めて使用すると、続いて4月にはサリー・ベインズ(※37)が7マイルエリアで盛り上がる複数のストリート・カルチャーをひとつのムーブメントとして紹介。さらに9月にはスティーブン・ヘイガー(※38)が、Afrika Bambaataaのインタビュー記事の中でブロンクスで盛り上がるストリートカルチャーの総称として「ヒップホップ」というワードを使用している。

こうした動きと並行する形で、7マイルエリアとセントラルパーク周辺、ロウアー・マンハッタンの若者たちは「ヒップホップ」的なイベントを共同で開催するようになっていく。1981年4月にFab 5 Freddyが「ビヨンド・ワーズ」(※39)、5月フォトグラファーのヘンリー・シャルファントが行おうとした「グラフィティ・ロック」(※40)、11月にクール・レディ・ブルーがスタートした「ウィール・オブ・スティール」(※41)は、いずれも7マイルエリアのカルチャーを一堂に集めて紹介するイベントだった。

1981年4月、Fab 5 FreddyとFUTURAのキュレーションしたイベント「ビヨンド・ワーズ」のフライヤー

当然のことながら四大要素を関連付け、「ヒップホップ」カルチャーとして紹介していこうとする動きに反感を抱く者も少なくなかったという。もちろん70年代半ばからブロンクス周辺で行われていたパークジャムに、MC、DJ、B-BOY、グラフィティ・ライターが勢ぞろいすることはあったし、Afrika Bambataaや<Zulu Nation>のメンバーは「四大要素は一つのムーブメントである」と確信していたのだろう。が、Zuluと関わりのない場所で長らく活動していた人々からすれば、一方的に「お前がやっていることは"ヒップホップ"の一部なのだ」と決めつけられた格好になる。受け入れ難いと感じる者が出てくるのも無理はない。

1981年、ヘンリー・シャルファントは「コモングラウンド」でのイベントを命名する際に四つのカルチャーをまとめるワードとして「グラフィティ・ロック」を選んでいる。また『Wild Style』のオープニング・アニメーションでは、一般的な四大要素とは異なる「Graffiti」「Rap」「Break」「Pop」が提示されている。こうした事実を踏まえれば『Wild Style 』の制作中ですら「ヒップホップ」というワードが意味するところは曖昧で合ったと考えるのが自然だろう。

- 出演者を探すためにパーティーに行き始めた当時、ストリートに「四大要素はひとつのムーブメントである」という雰囲気は広まっていましたか?

チャーリー - 簡単に言うと答えは「NO」 ですね。確かにAfrika Bambataaのように「四大要素は全て関係性のあるものだ」と語っている人はいました。しかし当時「MC、DJ、グラフィティ、ブレイキンの四要素がヒップホップなんだ」という明確な共通了解はありませんでしたね。例えば当時の私は本当に沢山のヒップホップクラブに行きましたが、そこでブレイキンをやっている子達を見たことは一度もありません。私が初めてB-BOYを見たのは、先ほど話したLEEの誕生会でのことでしたから」

- 「グラフィティはヒップホップシーンと離れた場所に存在していた」とは聞きますが、ブレイキンもですか

チャーリー - というのも当時のB-Boyって、ヒップホップのクラブに来る客層より年齢が若かったんですよ。彼らの多くは本当に子どもでしたからね。

- クラブに行くような年齢じゃなかったんですね

チャーリー - でも私は様々な映像を作るにあたって、ヒップホップに関連する全ての要素を一つのものとして表現しようと意図してきました。『Wild Style』もそのひとつです。ラストの野外シアターのような風景、つまりMC、DJ、グラフィティ、ブレイキンの四要素が一堂に揃ってパフォーマンスを行う野外コンサートのようなイベントは、当時のニューヨークのストリートでは一度も行われていません。私たちが撮影したのは、あくまで四つの要素が「ヒップホップ」という一つのカルチャーなんだという一体感を表現するために、自分たちで意図的に作り上げたイベントなんです。

- 出演者の皆さんが「現実と違うじゃないか」みたいな形で怒ったりしませんでした?

チャーリー - むしろ私が意図した形で表現されることについて満足してくれてたみたいですよ。先ほど私は「四大要素はひとつのムーブメントだったのか?」という質問に対して「NO」 と言いました。でも、それって「四大要素なんて互いに全く関係が無いんだ」という話ではない。 だって『Wild Style』の出演者は、みんな互いのことを良く知っていましたから。異なるカルチャーに関わっていたとしても、まったく違うシーンにいたとしても、人と人とのリンクはしっかりとあったわけです。

当時のB-Boyにはプレティーンつまり10〜12歳の子どもも多かったという。Rammellzee with Rock Steady in Wild Style 1982 photo by Marty Cooper

※32フューリアス・ファイブ/Furious Five:『WILDSTYLE』にも登場するDJグランドマスター・フラッシュと活動した5人組のラップグループ。実は『WILD STYLE』ラストの野外ステージのコンサートに参加しているが、機材トラブルのために出演シーンがカットされている。メンバーのRAHIEMによれば「グループとして行ったパフォーマンスの中でも最も刺激的だった」とのこと。

※33.キーフ・カウボーイ/Keef Cowboy:フレーズ制作の名人として知られており、「Throw your hands in the air」「Clap your hands to the beat」「Everbody scream」といった決まり文句のオリジネーターだと言われている

※34.ラヴ・バグ・スタースキー/Lovebug Starski:ブロンクス出身のラッパー兼DJ。1978 年にブロンクスのディスコ「ディスコ フィーバー」の DJとなる。軍隊に向かう友人の送別会でキーフ・カウボーイと即興で「ヒップホップ」というフレーズを作った。

※35.アフリカ・バンバータ/Afrika Bambaataa:Hip Hop草創期にクール・ハーク、グランドマスター・フラッシュとしのぎを削った伝説的なDJ。70年代初頭にNY最大のギャングだったBlack SpadesのWarlord(軍事部門の幹部)として組織の拡大に貢献していたが、やがてアフリカ系コミュニティへの貢献を考えるようになり、73年頃に<Universal Zulu Nation>の前身となる<Bronx River Organization>を設立。77年頃からは本格的にパーティーの開催をスタート。パークジャムと呼ばれる野外パーティーでDJとして活躍するように。やがて「平和、団結、愛、そして楽しむことを基盤に四大要素から成り立つヒップホップ」という概念を提唱し、シーンのゴッドファーザーとなった。2016 年に数十年間にわたって未成年への性的虐待を行なっていたことを告発され、Zulu Nationのリーダーの座から追放されている。

※36.マイケル・ホルマン/Michael Holman:バスキアも所属していたバンド「グレイ」のメンバーであり、のちに​​ヒップホップ TV番組『Graffiti Rock』をプロデュースした。マルコム・マクラーレンにアフリカ・バンバータを紹介した人物でもある。1982 年 1 月にカルチャー雑誌『East Village Eye』の「Chilly Xmas」イシュー誌上において、印刷物の中で初めて「Hip Hop」というワードを使用した。

※37.サリー・ベインズ/Sally Banes:舞踊史家。当時はニューヨーク大学でダンスを研究しつつ、ライターとしても活動していた。1981年4月22日発行の『ヴィレッジ・ヴォイス』紙で、グラフィティ、ラップ 、B-Boying を「ゲットーのストリートカルチャーの様式」であり「エネルギー、ウィット、スキルなどの『スタイル』を表現する場」と紹介した。この記事は現在もヴィレッジ・ヴォイス公式サイトで読むことが可能。https://www.villagevoice.com/2020/04/19/physical-graffiti-breaking-is-hard-to-do/

※38.スティーブン・ヘイガー/Steven Hager:80年代初頭にサウスブロンクスにおけるストリート・カルチャーの研究をしていた。1982 年 9月にVillage Voice誌に寄稿した記事 “Afrika Bambaataa’s Hip-Hop.” の中で、ブロンクス発のストリートカルチャーの名称として「ヒップホップ」というワードを以下の通り使用。「ブロンクスは5年以上に渡りストリートギャングの絶え間ない恐怖の中で暮らしていた。1975年に突然現れたのと同じ速さで彼らは姿を消した。ギャングにとって代わる、より良い存在が現れたからだ。それは最終的に”Hip Hop”と呼ばれた。」余談だが、後にヘイガーは大麻雑誌『HIGH TIMES』の編集者となり、大麻品種コンテスト「カナビス・カップ」の立ち上げにも関わっている。なおアフリカ・バンバータへのインタビュー記事はコーネル大学の公式サイトで読むことが可能。Afrika Bambaataa's Hip Hop https://digital.library.cornell.edu/catalog/ss:16057641

※39.ビヨンド・ワーズ/Beyond Words:1981年4月、ファブ5フレディとFUTURAのキュレーションの下、当時のロウワー・マンハッタンで最もヒップなナイトクラブだった「マッドクラブ」で開催したアートショー。 マーサ・クーパーが撮影した写真、PHASE2、LADY PINK、CRASH、RAMMELLZEE、HAZE、ZEPHYR、LEE、バスキア、キース・へリングらの作品を展示。 コールド・クラッシュ・ブラザーズ、アフリカ・バンバータ、ファンタスティック・フリークスがパフォーマンスを行なった。ブロンクスのラッパーとDJがロウワー・マンハッタンのアート・シーンに登場した初めてのイベントであり、この時にパーキー・シーンのグラフィティ・ライターとの邂逅も果たした。

※40.グラフィティ・ロック/Graffiti Rock:​​1981 年 5 月に開催される予定だったイベント。ヘンリー・シャルファントが撮影したグラフィティ写真、ブレイキン、DJとMCのパフォーマンスを一堂に集めた歴史的なイベントとなるはずだった。しかしリハーサル中、出演者と敵対するギャングが銃を持って乱入したため、イべントは中止に。ちなみにヘンリーはイベントのタイトルを四つのカルチャーを表す言葉にしたかったが、適切な言葉が見当たらず、「グラフィティ・ロック」と命名したらしい。

※41.ウィール・オブ・スティール/Wheel Of Steel:クール・レディ・ブルーが、1981年9月にBOW WOW WOWのオープニングアクトを務めていたアフリカ・バンバータとRock Steady Crewに出会ったことを機にスタートしたパーティー。MCとDJのパフォーマンスのほか、ブレイキンのショー、グラフィティの展示、ダブルダッチのパフォーマンスなどが行われていた。初期は収容人数200人ほどのレゲエクラブ「ネグリル」で開催していたが、1982年にネグリルの20倍の広さを持つ「ザ・ロキシー」に移動。7マイルエリアのキッズはもちろん、デヴィッド・ボウイやアンディ・ウォーホール、マドンナといった白人の大物アーティストも常連だった。イベント開始前にSex Pistolsのセミ・ドキュメンタリー映画『Great Rockn’N’Rool Swindle』を上映して、パンクスとHip Hopのリンクを作ったことでも知られている。

4. 1983年、『Wild Style』公開から始まったヒップホップの世界進出

『WILDSTYLE』ラストの野外ライブは無許可で行われた。Busy Bee at The Amphitheatre 1982 photo by Marty Cooper

1981年9月から約6週間にわたって行われたという『Wild Style』の撮影には数多くの味わい深いエピソードが存在する。ヤード(地下鉄の操車場)でのシーン撮影時、逮捕を恐れたLEEがロケを欠席し、DONDI(※42)が代役を務めたこと。野外コンサートのシーンは音響トラブルのため二度行われていること。そのせいでFurious 5の伝説的なライブシーンが映画本編からカットされてしまったこと。そもそも野外コンサートのロケは無許可で行われていること。思い出せる範囲でも枚挙にいとまがないが、今回はインタビュー時間が限られていたこともあり、残念ながらご本人に確認することが出来なかった。興味がある方は記事末に挙げた参考文献などをチェックしてみて欲しい。

『Wild Style』劇中ではLEE演じるZOROの作品という設定となっている作品だが、実際の作者はグラフィティ・ライターのDONDI。Wild Style Train by Dondi in The Bronx 1981 photo by Charlie Ahearn

撮影終了から1年ほどの編集期間を経て、ようやく完成した『Wild Style』は、1983年にタイムズ・スクエアで5週間にわたって公開されると大ヒットを記録する。劇場では上映のたびにチケットは売り切れ、ショーウィンドウはポスターを盗むために破壊され、時に暴動が起こることもあったというから凄まじい。

そんな『Wild Style』だが、実は劇場初公開は日本で行われている。新進気鋭の監督によるインディー映画ではあったが、この作品に言い知れぬ輝きを見出した日本の業界人は思いのほか多かったようだ。大手映画会社である大映が配給に名乗りを上げ、さらに西武百貨店がスポンサーについたことで出演者の日本ツアーが実現。来日時には昼の人気TV番組『笑っていいとも!』への出演も果たしている。

来日時に代々木公園を訪れた『Wild Style』クルー。 Busy Bee Wild Style tour Japan 1983 photo Charlie Ahearn 

- 完成した『Wild Style』を上映しての感想を教えていただきたいです。まず映画祭に出品され、そのあと1983年4月7日にスポンサーだったドイツのTV局ZDFで上映され、劇場初公開は1983年10月に日本で行われています

チャーリー - そうなんです。最初に映画館で上映されたのは日本なんですよね。つまり日本がワールドプレミア。 ここは強調しておきたいところですね(笑)

- 当時、出演者の皆さんと来日されてますよね。

チャーリー - ええ。映画の上映に合わせて MCやB-Boyを日本に連れて行きました。東京だけでなく、大阪でもパフォーマンスをしました。とにかく待遇が良かったのを覚えています。

- そもそもどのような経緯で日本に行ったのですか?

チャーリー - 当時、映画のツアーをオーガナイズしてくれたのが、フラン(※43)カズ(※44)という カップルでした。西武デパートから手厚いサポートを受けることが出来たのも、出演者を日本に呼んでもらえたのも彼らのおかげです。当時のアメリカでメイシーズのようなデパートがヒップホップのツアーをサポートするって、本当にあり得ないことだったんですよ。あれは本当に素晴らしい体験でした。すごく良いホテルに泊めてもらったのを覚えています。

- 西武でライブをする交換条件として、高級シャンパンが飲み放題になったという話を聞いたことがあります。

チャーリー - 我々は色んな意味で甘やかされてましたね(笑)。<Rock Steady Crew>の子達なんかは、日本で沢山の喝采を浴びたこともあって「ここから自分たちは世界的スターになるに違いない」と期待していました。実際には彼らの人生がすぐに変わることはなかったわけですが、日本に行った事で自分たちが潜在的に持っている影響力の強さみたいなところを実感出来たのは確かだと思います。

カズ葛井が『WILDSTYLE』クルーの来日に合わせて出版した「ワイルド・スタイルで行こう A Message from New York Ghetto South Bronx」。ヒップホップカルチャーを扱った日本初の書籍だった。

※42.DONDI:1961年ブルックリン生まれ。70年代半ばにグラフィティを始め、1980年の時点でLEEと並ぶ地下鉄グラフィティのキングとしてリスペクトを集めていた。まさに近代グラフィティにおけるスタイルマスターというべき人物で、その作品は数多くのライターに影響を与えている。映画『Wild Style』の制作にも深く関わっており、地下鉄に描かれた「WILDSTYLE」グラフィティはDONDIの作品。ZEPHYRのためにタイトルレターの原案を作ったほか、LEEが撮影を欠席した際には代役も務めている。1998年にAIDSで死去。

※43.フラン:フラン・ルーベル・クズイ。映画監督であり映画プロデューサー。X Japanの映画初出演作品でもある「TOKYO-POP」、のちに売れっ子となるジョス・ウェドン脚本の「バッフィ/ザ・バンパイア・キラー」などの映画を監督している。

※44.カズ:カズ葛井フランの夫で映画プロデューサー。当時は日本とアメリカを繋ぐコーディネーターとして働いていた。大映とコネクションを持っていたため配給契約を取り付けただけでなく『Wild Style』の出演者たちを来日させるべく奔走した。多くの出演者はパスポートどころか出生証明書すら持っていなかったため、彼らが生まれた病院を探し出し、出生証明書を受け取っていたという話も。

5.「MC、DJ、ブレイキン、グラフィティをやれと言いたかったのではない」(チャーリー・エイハーン)

大都市の片隅で虐げられていた人々が生み出した4つのサブカルチャーは、断絶していた7マイルエリアとロウワー・マンハッタンの若者に美しい出会いをもたらした。そして断絶を超えて繋がった若者たちは彼らは交流の中である種の共犯関係を結び、アート・シーンやメディアを利用しながらて、7マイルエリアのカルチャーを全世界へと拡散していった。

こうしたヒップホップが拡散していくムーブメントの中で、最も大きな成果を上げたことから『Wild Style』は「ヒップホップカルチャーの原点」とも言われている。とはいえ、この作品の公開をきっかけとして、7マイルエリアの若者たちが楽しむため、あるいは隣人を楽しませるために生み出した純粋なローカル・カルチャーは大きくその姿を変えていく。変化のトリガーを引いたチャーリー・エーハーン監督は、現在のヒップホップカルチャーをどのように捉えているのだろうか。

- メインストリーム化に伴って巨大化し、ビジネス色やスポーツ色が強くなった現在のヒップホップカルチャーの姿をどう捉えていますか。

チャーリー - 『Wild Style 』は83年から84年にかけて公開されました。そして86年から88年には私が知っていたブロンクスのオリジナルなヒップホップ・シーンは消え去っていました。ローカル・シーンに根付いていたヒップホップは消え去り、代わりにレコードの売り上げが良いアーティストが全国ツアーに出るというスタイルが主流になったんです。『Wild Style』に出演したFab 5 Freddyもまた『YO! MTV RAPS』という音楽番組の司会者になりました。ヒップホップはMTVとレコード業界が牛耳るものになってしまったんです。

- かつてヒップホップに感じた魅力は今でも残っていると思いますか?

チャーリー - 正直言って私が知っている元々のヒップホップとはかけ離れたものになっていましたね。しかしまったく希望がないわけじゃありません。世界中の都市に4大要素が根付いて、そこにいるローカルの人々が新しいエネルギーや新しいシーンを築いているからです。

- そこは『Wild Style』がヒップホップを全世界に拡散したからこそですよね。ピュアネスを保っている人たちも結構いる。

チャーリー - そうした光景を目の当たりにするたびに「本当にパワフルだな」「素晴らしいことだな」「すごく嬉しいな」って感じるんですよ。ただ、私が『Wild Style』を通じて伝えたかったのって、実はそもそも『MC、DJ、ブレイキン、グラフィティをやれ』ということではなかったんですよね。

- と、いいますと?

チャーリー - 私が『Wild Style』で表現したかったのは、当時の若者たちのクリエイティビティ、そしてクリエイティビティを持つもの同士だったからこそ生まれた人間関係でした。彼らを新鮮な形で描くことを通じて、カルチャーには人の生き方、人生そのものをガラッと変える強い力があるんだということを伝えたかった。映画を見た若者に「自分も人生と向き合って何かをやってみようかな」というインスピレーションを与えたかったんですよ。

- そうした本質的なメッセージを内包しているからこそ『Wild Style』は時代を超えて愛されるのでしょうね。

チャーリー - 今の若い子たちが『Wild Style』を観て感動したという話を聞くと、ちょっと驚くんですよね。でも考えてみれば、私も青春時代を過ごした60年代にブルースをはじめとする年上世代の表現からインスピレーションを探していましたからね。今の若者も、かつての私と同じように『Wild Style』から溢れ出すエネルギーを感じてくれているんだろうと思います。たとえ生きる時代や置かれている状況が違っていたとしても、きっと同じことがずっと繰り返されていくんでしょう。

Info

『Wild Style』 (『ワイルド・スタイル』)

監督・製作・脚本:チャーリー・エーハン
音楽:ファブ・ファイブ・フレディ、クリス・スタイン

撮影:クライブ・デビッドソン ジョン・フォスター
キャスト:リー・キノネス、ファブ・ファイブ・フレディ、サンドラ“ピンク”ファーバラ、パティ・アスター、グランドマスター・フラッシュ、
ビジー・ビー、コールド・クラッシュ・ブラザーズ、ラメルジー、ロックステディクルーほか
配給:シンカ
1982 年/アメリカ/82 分/スタンダード/DCP ©Pow Wow Productions, Ltd.

・HP : https://synca.jp/wildstyle/

9 月 2 日(金)ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿シネマカリテほか 全国順次ロードショー

参考文献

・『ヒップホップ・ジェネレーション』(2007) ジェフ・チャン/著 押野素子/訳 (リットーミュージック)

・『ヒップホップ家系図 Vol.1 (1970s-1981)』(2017)エド・ピスコー(プレスポップ)

・『ヒップホップ家系図 vol.2(1981~1983)』(2017)エド・ピスコー(プレスポップ)

・『ヒストリー・オブ・ヒップホップ』(2002)アラン・ライト/著 ブラスト編集部/監修(シンコー・ミュージック)

・『ヒップホップ・アメリカ』(2002)ネルソン ジョージ /著 高見 展/訳(ロッキングオン)

・『Wassup!NYC!!!ニューヨークヒップホップガイド』(2015)水谷 光孝 (TWJ BOOKS)

・『Hip Hop Files: Photographs 1979-1984』(2004)Martha Cooper(A FROM HERE TO FAME BOOK)

・『DONDI WHITE』(2001)Andrew”ZEPHYR”Witten/Michael White(Regan Books)

・『SUBWAY ART』(1984)Martha Cooper & Henry Shalfant(Thames and Hudson)

・『BORN IN THE BRONX A Visual Record of the Early Days of Hip Hop』(2007)Joe Conzo(1Xrun)

・『The Faith of Graffiti』(1974)Norman Mailer(It Books)

・『The Rickford Files Classic New York PhotoGraphs』(1999)Ricky Powell(St.Matin’s Griffin)

Movie

・『Just to Get a Rep』(2007)Peter Gerard (Accidental Media)

・『The Run Up 』(2006)Shaun Roberts, Shaun, Joey Garfield(Upper Playground Pub)

・『Death Bawl To Downtown』(2009)Rick CharnoskiCoan Nichols(ビジュアライズイメージ株式会社)

・『鉄拳とジャンプキック -カンフー映画の舞台裏-』(2019)(Netflix)

https://www.netflix.com/title/80188823

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