いとうせいこう&TINNIE PUNXの『建設的』は日本語ラップ最初期の作品として知られる。これに参加したTINNIE PUNXとは藤原ヒロシと高木完のユニット・TINY PANXのこと。ヒップホップ黎明期に結成され、時にテキストで、時にビジュアルで、時にプレイヤーとして、さまざまな媒体を自由に横断して新しい海外文化を紹介してきた。そんな彼らと編集者のデッツ松田が1977〜90年までの東京のクラブ、ファッションについて鼎談した書籍「TINY PANX +1 TOKYO CHRONICLE 1977-1990」がクラウドファンディングで受注を受け付けている。この書籍について藤原ヒロシに話を聞いた。
取材・構成 : 宮崎敬太
取材 : 和田哲郎
Sugarhill Gangの1stアルバムを地元のレコード屋で予約購入する16歳
和田 - 自分は84年生まれなので80年代のカルチャーってなかば伝説みたい感覚なんですが、『TINY PANX +1 1977-1990 TOKYO CHRONICLE』はディテールの細かさにびっくりしました。
宮崎 - 新宿二丁目にCISCOがあったこととかね。文化的な資料価値も高い。この本はヒロシさん、高木完さん、デッツ松田さんが筆談されてるんですよね。当時もそのスタイルで書かれていたんだとか。
藤原ヒロシ - うん。TINY PANX(当時はTINNIE PUNX)は最初ライターユニットだったからね。例えば、まず僕が「完ちゃん、最近いいレコードあった?」って原稿用紙に手書きして、隣にいる完ちゃんに渡して続きを書く、みたいな。最初の連載は確か「KING OF CROSS」というタイトルだったと思う。
宮崎 - ヒロシさんは東京に来る前、どんな雑誌を読んでたんですか?
藤原 - 「ポパイ」「ホットドッグ・プレス」、あと音楽誌だと「ミュージック・ライフ」「音楽専科」かな。あと「スタジオ・ヴォイス」。当時はアンディー・ウォーホールの「インタヴュー・マガジン」と提携してて、小暮徹さん、近田春夫さん、プラスチックスみたいなアンダーグラウンドなスターが出てきていたんです。
宮崎 - それはお姉さんからの影響ですか?
藤原 - いや自分で買ってましたね。情報といえば本だったし。へたしたら毎晩本屋さんで立ち読みしたかも。
和田 - ヒロシさんはかなり早くからSugarhill Gangを知ってたようですが、どうやって知ったんですか?
藤原 - 僕は姉の影響でChicの“GOOD TIMES”が大好きだったんです。そしたら雑誌に“GOOD TIMES”に合わせて喋ってる『おしゃべりラップ』ってのがあって、それがイケてると紹介されてて。この時はラップもヒップホップも知らないから「なんだろう?」と思いつつ、“GOOD TIMES”が好きだから地元のレコード屋さんで予約して買ったんです。
宮崎 - ちなみに『おしゃべりラップ』は、元祖ラップミュージックと言われている“Rapper’s Delight”が収録されたSugarhill Gangの1stアルバム『Sugarhill Gang』の日本盤。1980年リリースでヒロシさんは16歳(笑)。
藤原 - 地元にいた時はレコード屋さんにも毎日行ってて、店員さんとも知り合いだったんですよ。たまに内緒でサンプル盤をもらったり。入荷リストも見せてもらってて、『おしゃべりラップ』はさすがに注文しないと入荷しなくて。あの頃はRough Trade Recordsも全部日本盤が出てましたよ。7インチシングルとか。
宮崎 - ヒロシさんはおもしろいものをいち早く発見して、かっこよく見せる編集者的能力が異常に高いと思うんですが、ライター/編集者として影響を受けた人はいますか?
藤原 - どうだろうな……。高校の頃は編集者って言葉を知らなかったし(笑)。あの頃ってまだ日本はFar Eastで、珍しいものや新しいものがジャンルにとらわれず紹介されてたんですよ。「ポパイ」にスケートボードの記事、サーフィンの記事、パンクの記事が出てるみたいな。今で言うカルチャー全般がざっくりとマイノリティとして一括りにされてた。
宮崎 - なるほど。あと今回の本を読んで、当時は東京でもファッションやカルチャーに興味がある人がものすごく少なかったんだな、というのも驚きました。
藤原 - そうですね。ツバキハウスに行くと、とりあえず誰とでも話せたし、仲良くなれるような感じでした。
宮崎 - MILKの大川ひとみさんともツバキハウスで?
藤原 - 初めて会ったのは実は高校のとき。伊勢の洋服屋さんの人が東京でやるMILKか何かの展示会に行くというので、たまたま春休みだったか、高校が休みだったかで、僕も付いていったんです。そのときにひとみちゃんが声かけてくれて。17歳の時ですね。
宮崎 - 川勝正幸さん編著の『丘の上のパンク』に高校時代のヒロシさんの写真が出てますが、すでにめちゃくちゃおしゃれですもんね。こんな17歳がいたら声をかけたくなる気持ちもわかります(笑)。
藤原 - (笑)。
パンクとヒップホップには深いつながりがある
宮崎 - 本書の「なんか80~82年くらいが混沌としてた。目まぐるしくファッションのサイクルが変わっていく感じ。市松、ロカビリー、ニューロマンティック、ファンカラティーナ。パンクを卒業した人たちがいろいろ模索していて、凄く面白かった。」というヒロシさんの証言は貴重だと思いました。
藤原 - そんな感じだったんですよ。でもね、みんなヒップホップを意識してた。The Clashがフューチュラと一緒にやったり(81年リリースのシングル“This is Radio Clash”のジャケットはフューチュラ2000がデザイン)、Malcolm Mclarenが83年に『Duck Rock』を出して、ちょっと遅れてJohnny Rotten(John Lydon)もAfrika Bambaataaとアルバムを作ってたから(84年にリリースされたTime Zone『World Destruction』)。
和田 - ヒロシさんはヒップホップを聴いてどう思いましたか?
藤原 - 僕はまずスクラッチの音が大きかったですね。「なんだこれ?」って。
和田 - 初めてスクラッチを聴いたのは何年なんですか?『ワイルド・スタイル』とか?
藤原 - それより前です。『おしゃべりラップ』の後に、ENJOY RECORDSのコンピか何かのレコードを買ってて、そこにスクラッチが入ってたんです。70年代終わりか80年代頭くらい。あとTom Tom Clubとか。あのへんを並行して聴いていくうちに(ラップミュージックが)どういうことかわかってきて。たしか深夜にニューヨークか何かの番組をやってて、そこで初めてスクラッチするDJを見たんです。
和田 - 見ないとわかんないですもんね(笑)。
藤原 - そうそう(笑)。番組を見たあと僕もレコードをこすってみたんですよ。そしたら同じ音が出た。「これがスクラッチか」と。あとレコードって本来は指紋がつなかないように丁寧に取り扱うものなのに、それを擦っちゃう背徳感にも惹かれたんですよね。「そんなことしていいんだ?」みたいな。
宮崎 - その入りはパンク的ですよね。
藤原 - うん。パンクとヒップホップには深いつながりがある気がする。音楽的には全然違うけど、Everything But The Girl(83年デビュー)はSex Pistolsをきっかけに音楽を始めてるんです。パンクが(たくさんの人に)何かを始めさせた。そこからそれぞれ違うことをやるようになって、すごく音楽的になった人もいれば、そのままパンクだった人もいて、レゲエにいく人もいた。その中にヒップホップもあった。僕も深夜番組でスクラッチを見たあと、「できそう」と思ったんです。それに番組を見る前からミックステープみたいなものを作ってたから。
和田 - どういうことですか?
藤原 - うちは父と姉がそれぞれステレオのレコードプレーヤーを持ってて。その2台をマイクロフォンミキサーでつないで、タイミングよくポーズボタンを押せば曲と曲をつなげることができたんです。普通のプレーヤーだったからピッチコントロールはできなかったけど。
和田 - でも当時ってDJミックスみたいなものはまだないですよね?
藤原 - それが出てたんですよ。『サタデー・ナイト・フィーバー』が流行った頃にスタジオ54のコンピ・アルバム(79年リリースの『A Night At Studio 54』)が出てて、それがノンストップミックスだったんです。当時はまだ中学生だったけど、僕は「曲と曲って繋がるんだ!」ってすごく感動したんです。
宮崎 - マイクロフォンミキサーって何ですか?DJミキサーとは違うんですよね。
藤原 - 複数のマイクを同時に使うための機材だね。僕もノンストップミックスを作りたかったけどやり方がまったくわからないから、とりあえず電気屋さんに行っていろんなカタログを見まくってたんです。そしたらある日、「このマイクロフォンミキサーに(マイクではなく)2台のステレオをつなげたら良いのでは……?」と思いついて。買って家でやってみたらできたんです。
和田 - 完全に独学だった。その時代感だとアメリカでブロックパーティをしてた人たちとほぼ同時期ですよね。
藤原 - そういう子供だったんです(笑)。僕は人と違う変わったことがしたかったから、あの頃はDJがまったく有名じゃなかったけど田舎で熱中してましたね。
宮崎 - その感覚を共有できる人って、当時日本にいたんですか?
藤原 - 完全に共有できてなかったかもしれないけど、姉はディスコミュージックが好きだったから面白がってくれてましたね。東京に来てからはトシちゃん(中西俊夫)。トシちゃんは僕が東京に来た時はMELON(の1stアルバム『DO YOU LIKE JAPAN?』1982年リリース)のレコーディングでニューヨークに行ってて。Talking Headsの人たちと仲良かったから、すでに現地でブレイクダンスを目撃してたり、Grandmaster FlashのDJを聴いてて、すごくヒップホップに詳しかった。
宮崎 - 中西俊夫さんとはすぐに仲良くなれたんですか?
藤原 - レコーディング後に帰国した時、ひとみちゃんが紹介してくれたんです。僕はいまもプラスチックスの大ファンなんだけど、ニューヨークのヒップホップの話も聞きたいから、今日の取材みたいに、あれこれ質問しまくったんですよ(笑)。そしたらフランクにたくさん教えてくれましたね。
和田 - その時聴いたニューヨークの印象ってどんなものだったんですか?
藤原 - 「頭で回るんだよ」って(笑)。この頃はまだブレイクダンスの映像を見たことがなかったから何を言ってるのかよくわからなかったな。ただMELONの一番最初のMVにはブレイクダンスのシーンが入ってるんですね。曲はヒップホップじゃないんだけど。それを見た時は驚きました。音楽とカルチャーが一体化してるって。ヒップホップって、ファッション、ダンス、グラフィティー、ラップがまとまったカルチャーじゃないですか。パンクにも言えることだけど、そういう集合体としての面白さを感じましたね。あのころ日本に入ってくるヒップホップの12インチは月1~2枚程度で。でもラップやスクラッチが入ってるレコードを探して買いあさってました。
創意工夫を重ねて我流で身につけたDJスキル
宮崎 - 本書では高木完さんが「ヒロシがプラネットロックにPILのアカペラを混ぜてかけていて、ビックリして『何これ?』って聞きに行ったの覚えてるよ」という82年のエピソードを紹介されてますよね? ヒロシさんはいわゆる曲と曲をつなげるだけでなく、同時にかけてミックスするDJプレイはロンドンで目撃したんですか?
藤原 - いやいや、田舎でカセットテープを作ってた中学生の時に自分で気づいたんですよ。
宮崎 - ……え?
藤原 - PILのアカペラっていうのは“Religion”って曲のことで、John Lydonが詩の朗読をしてるんですね。これならインストの曲と一緒にかけられるじゃんって。“Planet Rock”のインストを一緒にかけたの。
宮崎 - ヒロシ少年の純粋な実験精神だったと。
和田 - ちなみに“Planet Rock”を初めて聴いた時はどう思いましたか?
藤原 - 僕はすごく衝撃を受けましたね。エレクトロヒップホップというものがそれまでなかったんですよ。最初期のヒップホップは生音的なものばかりで、カバーの一種というか。『おしゃべりラップ』もそうじゃない?Chicを弾き直してるからさ。Kraftwerkのフレーズを弾き直した電子音のヒップホップはENJOY RECORDSからもちょいちょい出てはいたんですよ。でも“Planet Rock”はビートも808で。そこが新しかった。テクノみたいなヴォコーダーで。最初聴いた時はジャンルすらわからなかった。
和田 - ちなみに82年とかだとクラブというかディスコにあるのってディスコミキサーですよね?いまみんなが知ってるDJミキサーよりも使いづらいというか、難しいんです。しかもそれでスクラッチするのって……
藤原 - 僕らの頃はクロスフェーダーがついたミキサーがなかったので縦フェーダーでスクラッチしてたんです。縦フェーダーでスクラッチすると、音量の調節が難しくて。だから僕らは縦フェーダーに割り箸を張って、良い感じでできるように工夫してました(笑)。あの頃、RISEでDJしてた人はみんな割り箸DJ。
宮崎 - っていうか、クロスフェーダーでもスクラッチって難しいですよね?
和田 - はい。僕も全然できませんもん。
藤原 - 僕がスクラッチを始めた頃はクロスフェーダーの存在を知らなかったからさ。初めてクロスフェーダーを見たのはニューヨークのトミーボーイレコードに行った時。素直に「フェーダーが横についてる!」と思った(笑)。もらったのか、自分で買ったのかは覚えてないけど、GEMINIってとこのちっちゃいやつを日本に持って帰って使ってたんだけど、安いから音が悪くて。ラジオ局では使えませんって言われちゃったりしてました。
和田 - おそらくヒロシさんがDJをしてた頃って、今みたいにクラブごとにかかる音楽がカテゴライズされてないですよね。どうやってレコードをセレクトしてたんですか?
藤原 - めちゃくちゃたくさん持って行ってたよ。クラブじゃないとこでDJすることも多かったから、ターンテーブルを持っていくこともあった。クラブでも、さっきのディスコミキサーの話じゃないけど、クロスフェーダー付きのミキサーがなかったから、ミキサーも持って早めにお店に行って出番の時は持参した機材に替えてもらってましたね。
Krush Posseには今で言うBAD HOPみたいな雰囲気があった
和田 - 80年代で印象的な国内のDJを教えてください。
藤原 - Krush Posseが出てきた時ですね。僕らが始めたヒップホップって、業界的な目線だったし、パンクからの流れがあった。安っぽい言い方するとおしゃれの一環みたいなところから始まってる。彼らを見たのは88年くらいのDJコンテストで。今で言うBAD HOPみたいな感じがしました。本物っぽいというか。
和田 - それってスチャダラパーとかも出てたDJコンテストですか?
藤原 - そうそう。スチャにはマガジンハウスっぽいおしゃれさがあったけど、Krushたちは「ヤバい、本物がきた」って感じがあって、結構衝撃を受けましたね。リアルヤンキーというか。だからこそ、あまり僕らは触れるべきじゃないと思ったんです。僕らが近づいていくことでかっこよさが濁ってしまうような気がしてた。
宮崎 - 先日、Red Bullのフリースタイルの企画「RASEN」にBOSEさんが参加したんですよ。若手、中堅どころの一番かっこいい人たちと混じっても未だにかっこよくて、個人的にスチャブームが再到来してます(笑)。
和田 - BOSEさんは既にDJコンテストの時からうまかったんですか?
藤原 - うん。最初からラップがうまかったし面白かった。ひねくれてて。彼らは頭が良い。それは最初に会った時から感じました。スチャとの思い出で印象的なのは、スーパーファミコンが出た時(1990年)かな。出たばっかりの頃は全然買えなかったんですよ。でも僕は当然持ってて。だから3人がよくスーファミをしに来てたんですね。そしたらANIは発売前から段ボールでスーファミのコントローラーを作ってイメトレしてて(笑)。めっちゃかっこいいと思いましたね。
和田 - スチャっぽいエピソードですね(笑)。ちなみにヒロシさんがヒップホップから離れた理由はなんだったんですか?
藤原 - Public Enemyが出てきたことですね。PE以前はいわゆるパーティーミュージックだったんです。僕も“Bring The Noise”を聴いた時はめちゃかっこいいと思った。けどニューヨークで彼らのライブを見て、これは「俺たち黒人!」ってかっこよさで、日本人には触れられないかっこよさだと思ったんです。
和田 - あの頃は、PEのライブに日本人のお客さんなんてほとんどいないでしょうしね。
藤原 - うん。Def Jamがマディソン・スクエア・ガーデンで初めてフェスをやった時、完ちゃんと2人で観に行ったんですよ。まず会場の雰囲気がめっちゃ怖い。僕らの席には見ず知らずの黒人の子供たちが座っちゃってるし。完ちゃんと「『どいて』って言うのもね……」と話して、僕らは後ろの空いてる席に座って(笑)。正直、僕はもう途中で帰りたかった。でも完ちゃんが最後まで見たいっていうから付き合ったんです。そしたら公演後がもっとヤバくて。至る所で喧嘩が巻き起こって、エスカレーターから人が落っこちてきたりするんです。なんとか外に出たら馬に乗った警官がいっぱいいて。今思うと、あのライブってScott La Rockが銃撃されて死ぬ直前だったんです。
和田 - クィーンズとサウスブロンクスの有名なビーフですね。
藤原 - そうなんですよ(笑)。PEが「ブラックパワー!」って言ってる中で2人だけ日本人がいるっていう。今思うとすごく貴重な経験でした。こんな感じで今回の本には筆談ならではの細かくて生々しい情報が載ってるので、この時代の東京に興味がある人には面白い本になってると思います。あと今の所は、クラウドファンディングのみでしか販売は予定してないです。ダイヤリーをイメージして装丁をデザインしたので、普通の出版社だとお金がかかりすぎてやってくれないんですよ(笑)。
宮崎 - 申し込みは4月8日までです!