「オレらの曲だけReplay/ここじゃほかは響かねぇ」(“Nowadays”より)
東武鉄道小泉線・西小泉駅を出ると、前を向けないほど強く冷たい風が吹き付けてきた。冬、ユーラシア大陸から日本海を越えてやってくる季節風は、日本列島の背骨である山脈にぶつかり、上昇気流となる。新潟側に大雪を降らせて蒸気を失うと、乾燥した空気が反対の群馬側に吹き下ろす。いわゆる上州のからっ風だ。堪らず戻った駅舎は、外の殺風景さとは反対に鮮やかな緑と黄で彩られている。そのふたつの色は、他でもないブラジルの国旗をイメージしたものである。
ここ、群馬県邑楽郡大泉町は、比率で言うと日本で最もブラジル人口の多い町だ。1990年の改正入管法施行で増加した南米からの移民は、スバルやパナソニックを始め工場の多い大泉町にも流入。そして、時が経った。今や移民2世も成長し、彼らにとってはブラジルのイメージとはかけ離れた同町が故郷となっている。また、彼らは新しい文化を生みつつある。2017年12月、Fuji Taitoという無名のラッパーが、突然、『BANGAZ』というEPを皮切りに、インターネットの地平に次々と音楽の爆弾を投下し始めた。その文字通り割れまくった音の上で、喉から血が出るほど叫ばれるハードな物語の中に“大泉”という単語を聞き取った時、これは新しい“日本”のラップ・ミュージックなのだと確信した。いや、彼は決して突然現れたわけではない。彼の登場は必然だったし、そこにずっといたのだ。見て見ぬ振りをされてきた、日本の中にあるもうひとつの社会に。
- ラップ・ミュージックにはまったのはいつですか?
Fuji Taito - Gucci Maneから入ったんですよ。“Bingo”っていう曲があるじゃないですか。Soulja BoyとWaka Flocka Flameも参加してるやつ。それを中学生の頃にラジオで聴いて、「おー、ヤバい!こんな音楽、あるんだ!」ってなって。そうしたら、お母さんが「2Pacもいいよ」「50 Centもいいよ」みたいな感じで教えてくれた。お母さんは大泉でアパレルをやってて、店でヒップホップのミュージック・ビデオを流してたんで、もともと、小さい頃から観たり聴いたりはしてたんです。
- 50 CentやGucci Maneは他の音楽とどう違いましたか?
Fuji Taito - “タフ”さが伝わってくるっていうか。明らかにタフな人生を生きてるんだろうなって。差別とかもあるわけじゃないですか。そういうことはオレらには分からないですけど、それでも伝わってくる。例えば、恋愛の曲って響いてこない時もありますよね。50 Centの曲はいつ聴いても響いてくるんですよ。ディールをしている時に恋愛の曲が流れても「黙れよ」って感じになる。でも、好きな女といても50 Centが流れてきたら、「こいつ、めっちゃタフだな」って聴き入っちゃう。そうやって、強制的に主張を通してくる感じにヤラれましたね。
- 日本のラップはどうでしょう。
Fuji Taito - オレ、本当の意味でくらったのはANARCHYさんですよ。大泉にあるヤバい団地で育ったタフな友達がいて、そいつ、オレの目の前で刺されたんです。で、それを抜いて、刺し返したようなやつなんです。ブラジルの血が4分の1入ってて、大泉で育って、機械みたいな感じで生きてきたんですけど、そんな男がANARCHYさんを聴いて泣いてましたからね。そこにくらった感じはありますね。
- Taito氏の地元の大泉町と言えば、ニート東京のインタヴューで話していた……子供の頃から、時折、外で鳴っていた花火のような音について、ある日、お母さんに訊いたところ「え、銃声だよ」と返されたというエピソードが印象的でした。
Fuji Taito - オレの家のほんの何軒か先でも撃たれて死んでるんですよ。原因は浮気らしいんですけど。ブラジル人の夫婦がいて、旦那が浮気して、嫁さんが怒ってその旦那を撃ち殺したっていう。でも、ニュースにはなってない。日本人が殺されたら流石にニュースになるんですけど。街ぐるみでイメージを上げようとしてるんですよね。駅を綺麗にしたりだとか。だから、本当のところは外から見えない。まぁ、基本的には他の街と変わらないですよ。プッシャーがいて、ジャンキーがいて。車を盗む奴がいて、それを買い取る工場があって。ただ、そこでのビジネスがヤクザを通すんじゃなくて、ブラジル人とブラジル人の“直(ちょく)”っていう。そういうルートをつくってるところが独特かもしれませんね。
- コミュニティ意識が強そうですね。
Fuji Taito - ブラジル人は強いですね。オレらの上の世代は特に。ビジネスには信用出来る日本人しかいれない、みたいな感じがあります。
- ブラジル人と日本人でぶつかったりはしない?
Fuji Taito - オレが中学生の頃は、上のひとたちがブラジル人対ヤクザみたいなことをやってましたね。聞いた話ですけど、机にラインを何本も引いて、「よし、ひとりずついけ」って言って、バキバキになってバットとかナイフ持って殴り込むみたいな。でも、向こう(ブラジル)とこっち(日本)じゃ、不良の感じも違うじゃないですか。ブラジルの不良がこっちに来て、そのまんまの勢いでやろうとしちゃうやつもいて。昔、コンビニでサンタの袋みたいな量のクサを担いでるやつがいたんです(笑)。そういうやつは、大抵、痛い目を見て帰って行きますね。
- 大泉町の中に、ブラジル人の社会と日本人の社会がある感じなんですね。
Fuji Taito - それもオレらの世代になってくると微妙なんですよね。ブラジル人と日本人が一緒のところもあるし、別々のところもあるみたいな。だから、もうちょっとしたら混ざり始めると思います。両者で組んでビジネスをしたりとか。
- 一般的にはやはり工場で働いているひとが多いんですよね。
Fuji Taito - そうですね。スバルとかパナソニックのバカでかい工場があって、同級生でも働いてるやつは多いです。オレも働いたことがあるんですけど、速攻で辞めちゃいました。退屈なんですよ。何も考えないから。
- Taito氏は、今、何の仕事をしているんですか?
Fuji Taito - 察してもらう感じで。
- え?あぁ……。
Fuji Taito - まぁ、普通に動いてますね(笑)。でも、車関係は多いですよ。オレのお父さんも車屋をやってますし、弟も車の専門学校に通ってたり。
- 車社会でもありますもんね。
Fuji Taito - そうそう。車がないと生活出来ないし、遊びも車になる。若い子もガレージを持ってて、そこで改造をするみたいな文化があるんです。
- そう言えば、『頭文字D』も群馬が舞台ですよね。
Fuji Taito - 山に登ってくと、ドリフトしてるやつが後ろから来たりしますよ。「ヤベェ、早いやつ来た」って。あと、道の途中で大破してたり。「おい、大丈夫か」「イノシシと正面衝突した! 保険がきかねぇ」みたいな(笑)。他の街だと不良は綺麗な車に乗ってると思うんですけど、大泉だとボッコボコのやつも多いですね。
- ローライダーより走り屋文化なんですね。ブラジル人特有のカスタムの仕方ってあります?
Fuji Taito - 車内空間を楽しむ感じですね。モニターをたくさんつけたりだとか。そこは日本人と違うかもしれない。
- ブラジルにもそういう文化ってあるんですか?
Fuji Taito - カスタムカー文化はあるんですけど、走り屋と結びついてるのは大泉独自ですね。山に囲まれてるからそうなるんだと思います。
- 面白いですね。先ほど、大泉ではブラジル人社会と日本人社会は別だという話がありましたが、車社会と山に囲まれた環境が走り屋文化を生み、両者を融合させている。ただ、大泉ってブラジルから来たひとにとってはあまりにも環境が違い過ぎませんか? 風が冷たいし、海もないし。それもステレオタイプなブラジルのイメージですが。
Fuji Taito - いや、本当にそうですよ。真逆のレベルですね。でも、夏は暑いんで、みんなブラジルと同じように上裸になってバーベキューとかやり出しますけどね。でも、何より日本は安全なところがいいんですよ。オレのお母さんの地元なんて、『シティ・オブ・ゴッド』の(舞台になったスラム=)ファベーラのすぐ近くですから。
- 話を聞いていると大泉も相当ですが、それでも全然ましだと。
Fuji Taito - 大泉は銃声が鳴るのもせいぜい1ヶ月に1回ですからね(笑)。子供の頃、お母さんの地元に行った時とか、それこそ、毎晩、銃声が聞こえて。危なかったのが、ピエロの格好をしてチャリに乗ってくる、アイス売りがいたんですよ。それで「あ、オレ、アイス食べたい!」って近づこうとしたら、お母さんに「ダメ!」って言われて。よく見たら、そいつ、腰に銃を挿してたんですよ。人さらいだったっていう。
- お母さんとお父さんは日本で知り合ったんですか?
Fuji Taito - そうです。お母さんが日本に来たのが15歳くらい。お父さんが20歳くらいかな。お父さんの育った環境はまた違った意味でハード。立地的にハードっていう。山岳地帯で、家も自分たちで建てたらしいです。最初の家は泥でつくって、その後、おじいちゃんが木にしたって。三匹の子豚みたいな(笑)。それで、お父さんは日本で外国人の人材派遣会社で働いて、お母さんは工場で働いて、仕事を通じて知り合った。
- ご両親、日本語は?
Fuji Taito - お母さんは全然ですね。保育園の通訳もオレがしてたぐらいで。「プリントが配られても読めなくて泣いた」って言ってました。それはオレのお母さんだけじゃなくて、他のブラジルから来たお母さんもみんな大変だったと思うんですよね。
- 周りにも苦労している家庭が多かったですか?
Fuji Taito - そうですね。うちはそれでも普通なんですよ。金持ちではないけど、食うものには困らなかったし、暖かい家庭で育ててもらいました。でも、周りには大変なやつがいっぱいいましたね。どうしようもない、みたいな状態の。友達になるのは何故かそういうやつばっかりでした。単純にブラジル人は大変な家庭が多いっていうことだと思うんですけど。
- ブラジル人の不良は強制送還になってしまうケースも多いそうですね。
Fuji Taito - オレのお母さんの方のおじさんも、ブラジルから日本に来て強制送還になって、ブラジルでもまた事件を起こしまくっていられなくなって、今はポルトガルで暮らしてるんです。会いに行ったことがあるんですけど、話したらめっちゃDNAを感じたっていうか。「PCC」って分かりますか? ブラジルのギャング。それだったんです。ちなみに、オレの従兄弟も「PCC」なんですよね。サンパウロでパクられてて、いつ出てこれるのか分かんないんですけど。
- やっぱり、お母さんは大変な環境で育ったんですね。
Fuji Taito - そういう環境が嫌で、日本に行くしかないと考えたんだと思う。お母さん、オレがいろいろやってた時も何も言わなかったんです。で、ある日、「いや、おじさんもね……」って。おじさんが日本に居たのはオレが6歳ぐらいまでなんで、事情はよく知らなかったんですけど、ポルトガルで訊いたらかましまくってたみたいです。ヤクザとかも頭が上がんない状態。「当時の日本は楽勝だった」って言ってました。「ブラジル人大勢で突っ込んでけば余裕」って。子供の頃、オレはいつもおじさんと友達が遊んでるところに連れて行かれてたらしくて。スケボーしてると、「行くぞ!」って拐われるぐらいのノリで。今思うとみんなでチルしてたんだと思うんですけど。
- おじさんの血筋を受け継いたようなところがあるんですね。
Fuji Taito - お父さんは大学までしっかり出たようなひとなんで、そういうことは好きじゃなくて。おじさんが日本に居た時も喧嘩ばっかりだったって言ってました。
- ちなみに、“Fuji Taito”という名前は、先輩の名前から取ったんですよね。
Fuji Taito - そうですね。本名ではないんですけど。地元もそのひとは大泉じゃないし、日本人で。でも、その先輩に叩き込まれたっていうか、弟扱いしてもらってたんですよ。中1から中3まで、ずっと一緒にいましたね。オレ、学校は寝てましたから。毎晩、先輩と遊んでたんで。
- 出会いは?
Fuji Taito - オレがまだ12歳の時ですかね。ビジネスを始めるにあたって、「ひとり、お前みたいなやつが必要だ」って言われたんです。「普通のガキが必要だ」「でも、ちびんないガキが必要だ」って。順を追って説明すると、その前にいろいろあったんです。オレが別のひとと揉めたんですね。で、落ちてた鉄パイプで殴っちゃって。それが先が尖ってて、結構、いっちゃったんです。死にはしなかったんですけど、死にそうなところまで。先輩はそのひとの知り合いみたいな感じで、近くに居たんですぐ駆けつけてきて。オレもやられると思ったんで逃げて。でも、「まぁ、待て」って感じになって話したら、スカウトされて。
- 先輩が「お前みたいなやつが欲しかった」と言ったのは、ビジネスをやるにあたって、捕まりにくい年齢の実働部隊が必要だったということですよね。
Fuji Taito - そうだと思います。「お前が14になるまでだから」って言われたんで。「ならいいや」みたいな感じだったんですけど、おれは。「何してもいいじゃん」って。結局、15ぐらいまで続けちゃったんですけど(注:07年の少年法改正で少年院に収容出来る年齢下限は14歳以上からおおむね12歳以上に引き下げられている)
- どんなビジネスだったんですか?
Fuji Taito - 脱法ドラッグですね。
- あぁ、まさにそういう時代ですよね。
Fuji Taito - 面白い話、いろいろありますよ。オレらが使ってた倉庫があって、そこでパウダーをつくってたら、1回、爆発しちゃって(笑)。その時、オレは外にいたんですけど、ボンッて音が聞こえて、「あ、ヤバい」と思って中に入ったら、ぐっちゃぐちゃの状態になってて。
- その頃、脱法ドラッグの取材をやりましたが、製造はDIYなんですよね。材料を輸入して、混ぜて。
Fuji Taito - それこそ、ブラジルから材料を輸入してましたよ。工場は何箇所かあったんですけど、山小屋を借りたり、大きな倉庫を借りたり。
- 北関東という、使える土地が多い環境に適していたわけですね。
Fuji Taito - そのプロジェクトは「1年半でやり切る」「幾ら幾ら儲けて終わる」っていう話だったんですけど、長引いちゃって。それが失敗したせいで先輩は死んじゃったんです。
- なるほど……。しかし、ラップは中学生の頃にGucci Maneから入ったということでしたが、まさにトラップ稼業をやりながらトラップを聴いていたわけですね。自分でラップをし始めたのはいつですか?
Fuji Taito - その頃、先輩に「ラップしてみろよ」って言われて、ノリでやってみたのが最初と言えば最初ですね。
- 周りにラッパーはいたんですか?
Fuji Taito - いなかったです。不良の人はそういうことはやらないんで。でも、みんなで話してて、ビートをかけたらそのままのノリでフリースタイルして、みたいなやつはたくさんいましたよ。
- 中学の終わりで先輩が亡くなって、ビジネスが終わって、高校から本格的にラップを始めて、という感じですか?
Fuji Taito - はい。1回、ゼロったっすね。ゼロって、高校に入って、普通のひと……こいつら(取材時にいた、群馬のコレクティヴ=BRIZA)は“普通のひと”って言われることを嫌がるんですけど、でも、オレとしてはようやく普通のひとに会えたって感じがしましたね。
- 中学生でハードな体験をして、自分でも自分を変えたいという気持ちはあった?
Fuji Taito - ありましたね。やっぱり、環境を変えないと自分も変えられない。自分を変えられる仲間を見つけるっていうことも大事ですね。自分が行きたい方向に行ける、ヴァイブスを持ってる仲間っていうか。ヴァイブスがあり過ぎてもダメだし、なさ過ぎてもダメだっていう感じで。
- そして、高校1年生の時、第1回高校生ラップ選手権(2012年7月放送)にCoRoN名義で出場します。『BANGAZ』を聴いて、「こんなヤバいラッパー、全く知らなかった!」と思って検索したらFuji Taito=CoRoNだということが分かって驚きました。
Fuji Taito - そうですよね(笑)第1回の第1戦目の1ヴァース目で、しかも相手がT-Pablow君で。あれが良かったんですよね。あの大失敗が。あれがなかったら、オレ、ただのなんでもないやつだったんで。普通にラップをやって、普通にPablow君に負けてたら、ただの〝選手権敗退者〟ですからね。だけど、あそこでクソ下手なラップやって、ボッコボコに負けたからこそ、いけるっていうのはありますね。逆に何でも出来るっていう。遊びでやる以外ではあれが初めてのラップだったんですよ。「日本って、高校生のラップのイベントとかあるのかな?」と思って検索したらあの番組がヒットして、ホームページから応募したら受かっちゃって。出たら、「あ、みんな結構やってんなー」みたいな。
- 始まりは軽い気持ちだった。
Fuji Taito - 第1回に出た時は、まさかこんな大事にはなるとは考えてなかったんですよ。で、第3回(2013年4月放送)かな、初めて公開でやった時に観に行ったら、観客の熱気が凄くて、「オレ、本気でやろう」って思ったんです。第4回(2013年10月放送)ではPablow君が戻ってきてまた優勝して、彼が大きくなるのを信じてたようなところもありましたね。Pablow君はこのまま〝いちばん〟になるだろうから、オレも別のルートを通って〝いちばん〟になろうって。
- 敗者復活戦から上がっていく……ではないですけど、初めて対戦して負けたひととまたトップで再開したいみたいな。
Fuji Taito - そうです、そうです。そのストーリー性がないとオレはやれてないと思います。
- ラッパーとしてはあの敗退から始まった。
Fuji Taito - はい、もちろん。
- その後、2016年にはZeebra氏主宰レーベルGRAND MASTERのコンピレーション『SUPER NOVA』に、ヒップホップ・コレクティヴ=UMAとして参加しますね。当時のプロフィールには「群馬県出身。活動履歴1年のUMAはMC、DJ、スケーター、ダンサー、グラフィティライターなど総勢10名近いユニット」とあります。
Fuji Taito - 高校に入ってから知り合った仲間が、その後、UMAになったんです。大泉にはそれまでヒップホップがなかったんで、「1回、全部やろう」って考えて。ラップ、DJ、ダンス、グラフィティ……1回、全部やって、何か新しいものが出てきたらそれを発展させていけばいいっていうか。地元の劇場でイベントを打って、そこにも全部の要素を入れ込んでましたね。その後、オレと、今も一緒にやってるRaffy Ray、Lil Kaviar、あとCaioっていうやつと東京に出て、みんなで超狭いアパートで暮らして。
- 2017年9月にハードな“Bangarang”がYoutubeにアップされて、年末にはそれを収録したEP『BANGAZ』がリリースされていますけど、並行してLDHの<EXILE Presents VOCAL BATTLE AUDITION>にも参加、ラップ部門のファイナリストに入っていますよね。情報だけだと落差が凄いです。
Fuji Taito - 東京での生活は、群馬の仲間とのラップ合宿、みたいなイメージだったんです。いろんなものを観て、影響を受けられたらいいなって。でも、なかなかそう上手くいかなくて。東京では群馬とは別の意味でのトラップっていうか、トラップ稼業じゃなくてトラップ遊びの方にはまっちゃって。薬局でキメられるものを買いまくってバカ飲みするとか(笑)。UMAのメンバーもまとまらなくて、Raffy RayとLil Kaviarは大泉に帰っちゃったし、Caioはブラジルに帰っちゃって。そんな中で、LDHのオーディションの話がきて。同じ頃に『BANGAZ』は完成してたんで、オーディンションに落ちたら出そうと思いましたね。それぐらい反対の方向に振り切れたものだったから、どっちかの人生を選ぼうと。結局、オーディションはダメで、「どうにかここで1発かまさないと終わりじゃん」「仲間もそれぞれの人生を歩み始めちゃうじゃん」って焦って『BANGAZ』を出したら、みんなバーン!ってクラってくれて、また曲をつくり始めて。
- 『BANGAZ』のサウンドは、当時、アメリカで台頭していたサウス・フロリダ勢とリンクしていたところもありますよね。
Fuji Taito - 完全にそれがやりたくて。というか、オレ、X(XXXTentacion)にめっちゃ感じちゃって。それで、プロデューサーのGoANTENNAに「そっちに振り切ってつくってくれ」ってお願いしたら、速攻で上がってきたんですね。で、オレも速攻でヴァースを書いて。
- パンク的なスタイルはサウス・フロリダから影響を受けているのでしょうが、ラップの内容にはローカルなリリシズムとでも言うべきものが感じられます。
Fuji Taito - 『BANGAZ』はイメージで言うと、トラップにANARCHYさんを掛け合わせたかったんですよ。最初の方でも言いましたけど、ANARCHYさんは最強の日本語ラップだと思ってるので。日本語を最も上手く暴力的に使うし、さらに感動する。それっていちばん格好いいじゃないですか。
- “Fuji Taito”という今の名義を使い始めたのもこのEPからですよね。
Fuji Taito - そうですね。それまで名義を変えまくってたんですけど、いい加減、ちゃんとやろうと。あと、初めて暴力的な歌詞をラップするにあたって、そういうことを歌うんだったら原点は中学生の時の体験だし、その世界に導いてくれた先輩の名前を使おうと思っていじったら、“Fuji Taito”という名前が出来て、語感がいいなと。さらに、そこにいろいろと意味も込められて。“たいと”って画数がいちばん多い漢字なんですよ。しかも和製漢字で。あと、“タイト”ってカタカナにすると、“外”の中に“人”がいる。これはいい感じにはまったと思いました。
- その後、大泉に戻って、UMAがBRIZAに発展しました。
Fuji Taito - “Brisa”はポルトガル語で“風”って意味なんですけど、ブラジルではスラングとしても使う。例えば、いい感じにとんでる時にバッド入ることを言うやつっているじゃないですか。そういう、急に「こないだ先輩がさー」とか意味分かんない会話してくるやつに対して、「お前、オレの“Brisa”盗むなよ!」みたいな……。
- “Don't Kill My Vibe ”だ。
Fuji Taito - そうそう。で、他にもいろいろな使い方するっていう。
- もとの“Brisa”は「そよ風」と訳されるみたいですけど、群馬のからっ風のイメージを反転させてもいるわけですよね。ちなみに、今、都内でライヴをやる時は、大泉からBRIZAと一緒に来て大勢でステージに上がり、まさに地元のヴァイブを東京に持ち込む感じになっています。
Fuji Taito - 自分が有名になりたいとかじゃなくて、こいつらと稼ぎたいって考えちゃうんですよね。そこには、中学の時のビジネスが発展させられなかったことに対する反省もあります。しかも、ラップだったら合法でいけるし、さらに、楽しいし。ラップは最高ですよ。
- 逆に、他の土地から大泉町に遊びに来て欲しいと思いますか?
Fuji Taito - 思います。東京で遊ぶのって危ないじゃないですか。だったら「群馬でやれよ」って思うんです。群馬は自由だし。遊びに来たやつは、みんな「めっちゃ楽しい! 群馬最高!」みたいな感じになりますから。毎日、渋谷で遊んでるやつらが、「また群馬行きたい! 群馬行きたい!」って。なので、今後は東京と群馬でパーティを開催して、ハシゴさせるとか、そういうことをしたいですね。アトランタもラップで注目されてから人口が増えたらしいんです。そのノリで、群馬にもひとを集めたいですね。