FNMNL (フェノメナル)

【コラム】ブロック・パーティを振り返る、もしくはBボーイ・スタンス2018

ブロック・パーティは、都市の中のひとつもしくはひとつの区画以上の路上で、時には安全上の理由から交通を遮断してもパーティを開催することだ。同じように、公園で開かれるパーティをパーク・ジャムと呼ぶ。

音楽とダンスはパーティに付いて回るのは世界中どこでも同じく子供の誕生日パーティでも変わりなく、ジョディ・フォスター主演の映画『リトルマン・テイト』のジャズが流れる最後の場面のように、音楽がプレイされるや子供も親たちもステップを踏みカップルになったりしながらダンスを始める。そこからパーティが部屋の窓から飛び出していき、鉄製の救助用の階段を駆け下りてストリートに解放される時までは、それほど離れてはいない。

ブロック・パーティの招待状は、コミュニティと切り離されていない人々すべてに届く。

ブロック・パーティをストリート・パーティと呼ぶなら、それは世界各地に見られる。ヨーロッパやUKにアジアにもあるだろう。一方、アメリカではブロック・パーティは極めてニューヨーク的なイベントとして捉えられてきたといっていい。都市の交通を遮断してまでパーティが優先されるのは、アメリカ人が日本人に比べてお祭り騒ぎが好きだからではなくて、第一次世界大戦時、近所から遠い戦地に赴いた兵士たちを想う人々が集まっての愛国歌の詠唱やパレードというカルチャー/社会の要請としてブロック・パーティが始まったからだ。

そして実はなによりも、僕たちがこのような音楽の持ちえる恒久的な力に思いを馳せることができるのは、1970年代のニューヨークのブルックリン、ブロンクス、そしてクィーンズでのディスコとヒップホップのDJたちが僕たちに与えてくれた展望があるからで、こうしたブロック・パーティのイメージは、その後プロモーション・ヴィデオの映像やイベントのタイトルに取り入れられ、メディアを通じ離散し世界中の想像力を刺激した。

キミドリのメンバーとして90年代前半の日本のヒップホップの歴史の草創期に登場したDJ/アーティストのクボタタケシは、そのほぼ10年前に住んでいたニュージャージーから、ある日ヒップホップ映画『ビートストリート』を観るために、そしてチャイナタウンで見掛けたブルース・リーのパンチ&ジュディ人形を求めてマンハッタンへ向っていた。同じ区域の他の映画館ほとんどではポルノを上映していた時代、空席の目立つ42丁目の映画館のひとつで観ることができた『ビートストリート』の全てを彼はそれ以来忘れたことはない。映画でのパーティは屋内で行われる設定だが、どこをとっても海賊的なブロック・パーティ流儀でヒップホップ・パーティの原型だ。クボタタケシは1970年代のブロンクスのブロック・パーティには出かけたことはないが、こうしてヒップホップは彼の頭に移植された。ちなみにブルース・リーの人形の方は見当たらず、店主は昨日まであったとお決まりの文句を口にしただけだった。

マンハッタンの人々には自分の住居している地域から出かける習慣はあっても、ブロンクスとブルックリン、クィーンズは各々の生活域にコミュニティーが確固としてあり、人々はそれぞれローカルな暮らしと娯楽で充足し互いの行き来はあまりなかった。

ブロンクスで起きたヒップホップの前史として、ブルックリンやクィーンズの“ディスコ(音楽をプレイする)DJ”がいたことは1980年代から知られていたが、最近までその詳細はメディアで取沙汰されていなかった。しかし、徐々に、ブロンクスの3人の創始者以外のDJたちが、ブロック・パーティやパーク・ジャムを頻繁に開いていたことや彼らの重要性が明らかになってくる。グランドマスター・フラワーズ、プラマー、マボヤなどがこうしたDJたちの最初の世代だ。

ブロンクスのヒップホップに初期から関わり映画『ワイルド・スタイル』の事実上脚本を書いたファブ・ファイヴ・フレディは、彼が育った当時のブルックリンのブロック・パーティについてこう回想する。

「(ブロンクスで)スクラッチはまだ起きたばかりの頃だったが、ブルックリンのDJたちはもうはっきりとパーティを始めていたといっていい。自作の巨大なスピーカーを公園や路上に持ち込み、非合法で電源をとって始めるブロック・パーティの全盛期だった。ブルックリンのベッドスタイで育ったが、警官も何も云わず好きなようにさせてくれていた。何をしでかすか判らない不良たちが事件も起こさずパーティにエネルギーを注いでいたからだ。音楽で楽しみ近所の可愛い子と知り合うほうが大事だから(笑)」

「価格が狂ってる!」が宣伝文句の家電チェーン、クレイジー・エディは1971年、ビズ・マーキーが後にコマーシャルをもじった家電チェーンWIZは1978年にそれぞれ設立されている。前コンピューター時代の1970年代は家電が多様な可能性を持った消費材として注目された時代であり、ウォークマンの登場までまだ10年あった。パワー・アンプやターンテーブルといった機材の進化と、DJカルチャーの隆盛は相互関係にあった。そのうえジャマイカからの移住に伴ってのレゲエのカルチャーの要素を持ち込みがあり、ブルックリンとクィーンズのDJたちは移動可能、電源さえ繋げばどこでも轟く音でパーティを開始できる巨大なサウンド・システムを作っていく。それぞれのデザインは違っても、その当時旺盛な活動をしていたDJたちのシステムは高さに幅がそれぞれ数メートルに及ぶものだった。

当時のパーティのひとつ、クィーンズのエルムハースト、127丁目の公園での1977年のパーク・ジャムのライヴ・レコーディングを聞くと、プレイされるロレッタ・ハロウェイの”Hit N Run”やラモン・ドジャーの”Going Back To My Roots”などに興奮したオーディエンスがスピーカーの上によじ登ってダンスするためにDJは何回もマイクを通して注意をしなくてはならず、仕舞いには数分間完全に音を下げてパーティは中断されている。8mmで撮影されたフッテージに映っているレッド、ブラックのスーツに大きな襟のファンキーなシャツ、背中が開いた華やかなシフォン・ドレス、自由に着飾り大きなアフロ・ヘアを揺らして楽しむ男女たち——

「ジェネレーターを持っていなかったから、数メートルに及ぶコードで街灯の下の箱を開けて機材に繋ぐとなんと動き始めた。自分たちがやっていたパーク・ジャムは4、5ブロック先にも音が鳴り響くほどで、数百人が集まり何時間も何時間もダンスをしていた」(ディスコ・ツインズ、当時のDJチーム)

毎週末には、幾つもブロック・パーティやジャムがあり特に春から夏にかけては近所中が外でパーティを楽しんでいた。クール・ハークが妹のために開いた最初のパーティを開いた1973年8月11日が、ヒップホップの生まれた日だとされる。1975年までにはブロンクス中の若い連中は自分たちのサウンド・システムを持って移動簡易ディスコを開くDJになりたがっていたという。B,B&Qはそれぞれ別世界だともいうが、ある程度カルチャーもシンクロナイズしていたのだ。

ゆえにブルックリンやクィーンズのDJたちがヒップホップの正史から除去され、クール・ハークやアフリカ・バンバータ、グランドマスター・フラッシュの名前だけが強調されるのは歴史修正主義だという評論家もいる。しかしながら、ブルックリンやクィーンズのDJたちの功績を認めるとしても、彼らは十分にヒップホップではないと考える理由はある。様々なレコード(曲)のある部分だけを拾い上げ選びながらミックスするプレイはしていたが、クール・ハークの“メリー・ゴー・ラウンド”と呼ばれる2枚の同じレコードを用意して特定の同じパートを繰り返すことをしていない。このテクニックの重要性は、それがブレイクビーツという概念の発見であること、即ちポップ・ミュージックにおける楽曲にまつわる脱/再構築に他ならないからだ。

では、突然雷に打たれたように青天の霹靂で力に溢れたユリイカの瞬間がクール・ハークに訪れ、ブレイクビーツを理解し音楽の歴史を変えたのか。そうではなく、実際には”メリー・ゴー・ラウンド”から確固たるブレイクビーツへと、DJの行為とB-ボーイたちのダンスとの相互作用の内で発達したのだと思われる。

その時、ヒップホップの日本におけるブロック・パーティを継ぐ者たちは、やはり1983〜1984年に原宿の歩行者天国に集いブレイキングを始めた後のTokyo B-Boysだといえる。当時の歩行者天国ではアメリカの50年代風のファッションに身を包んだ通称“ローラー”、そして“竹の子族”が数多くのグループをなしてダンスしていた。そこで彼らはブレイキングを始めたのだ。

「83年の冬に最初に出かけて行った時、ラジカセ持っていたブギーやっていた3人組にもう遭遇したけど、今でも誰だか判らない。それから冬の間ずっと練習して、84年にまた行ったら、もうそこに繫げた段ボールを敷いてCRAZY-Aたちがやってましたね。ファンキー・ジャム・ブレイカーズというマネージャーもついたグループも横浜にはもういました。でも、高校生でボディ・ポッピン中心のショウ・ケース、ユニフォームを作っていたのは東京では僕たちが最初かも知れない。それにミスティック・ムーヴァーズという名前もつけていたし」

通っていた高校の友だちと弟の4人でそのCRAZY-Aらと少し離れた場所にリノウリウムを敷いて、毎週末にブレイクを始めたのはCake-Kたちだ。ちょうど公開された映画『ブレイキン』のキャストが歩行者天国に寄ったり、もしくは後に近田春夫のヴィブラストーンズのラッパーになるDr.Tommyと歩行者天国と出会ったり・・・1984年の12月には幾つかのグループの歩行者天国のブレイカーたちからひとつの集団が出来上がっていったとCake-Kはいう。

渋谷に日本最初のヒップホップ・オリエンテッドなクラブ、その名も“ヒップホップ”がオープンするのは翌1985年だ。そのうちこの歩行者天国という東京でのブロック・パーティの試みのなかで、DJ KRUSHたちがターン・テーブルとアンプにスピーカーを運び込みプレイし始めるだろう。

ブロック・パーティは過去のものだろうか?

CRAZY-AたちTOKYO B-BOYSの営為はその流れは、1997年の“Tokyo B-BOYS’ Anniversary”からその後"B BOY PARK"として、惜しまれつつ2017年まで続いたイベントの20年という時間に注ぎこまれていく。

コメディアンのデイヴ・チャッペルは2004年、その約30年前に制作された『ワッツタックス』というコンサート/映画にヒントを得てブルックリンのストリートにカニエ・ウェスト、ザ・ルーツ、エリカ・バドゥ、デッド・プレッツといったアクトを招きコンサー形式のパーティを開き、それは映画『ブロック・パーティ』になった。

"コーチェラ・ヴァレー・ミュージック&アート・フェスティヴァル"という世界を代表するフェスティヴァルはここ数年3日間のパフォーマンスがオンラインで配信され、今年はアメリカのショウ・ビジネスの頂点ビヨンセの高度に洗練され精巧なパフォーマンスを全世界が目撃した。他のヘッドライナーを含むエミネム、タイラー・ザ・クリエイター、ミーゴス、カーディBと多くのアクトたちは、昨年フォーブス誌が報じたオンラインの音楽消費の統計の結果のように、エンターテインメントにおいての支配的な勢力としてのスペクタクルなヒップホップ/R&Bそのものである。チケットも毎年高騰し日本円で約4万7000円する。

その時、多幸感が漂うその空間から、私たちはそうした音楽の出生地、ぱっと見は粗い路上でのジャム=ブロック・パーティへと立ち戻ることで、現代のアートとしてのヒップホップの豊かで力強い源泉を再確認することになるだろう。過去が私たちを造りあげているので、ダンス・ミュージックを促進するそうした力は、例えばチャイルディッシュ・ガンビーノの現在のカルチャー/政治の様相と19世紀のジャンプ・ジム・クロウを重ね合わせたパフォーマンスのなかにも見ることができる。

ポップ・ミュージックに正統はない。ここで短く振り返ってみたように、ブロック・パーティは、優れて自由な精神によって肥沃なカルチャーの遺伝子が交配され紡がれ未来へ響く実験の場に他ならない。

「・・・ブーツのジッパーを上げる、私のルーツに戻る/出生した土地へと、地球へと/これまで雨の中に立っていて、ずぶ濡れで苦痛に浸ってきた/故郷へ向う、頭の向きを変えて・・・」——“Going Back To My Roots”、Lamont Dozier、1977。

荏開津広

執筆/DJ/京都精華大学、立教大学非常勤講師。ポンピドゥー・センター発の映像祭オールピスト京都プログラム・ディレクター。90年代初頭より東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、ZOO、MIX、YELLOW、INKSTICKなどでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。共訳書に『サウンド・アート』(フィルムアート社、2010年)。

そしてここで書かれたブロックパーティーの空気を受け継ぐイベント『ZIMA BLOCK PARTY』が、5/29(火)に東京・南青山のPIZZA SLICE 2で開催される。kZmやあっこゴリラなどエネルギッシュな若手アクトたちが、プリミティブなパーティーの熱気を蘇らせてくれることだろう。詳細はこちらまで。

Info

イベントタイトル:ZIMA BLOCK PARTY

開催日:2018年5月29日(火)

開催時間:OPEN・START 19:00 / CLOSE 22:00

チケット情報:当日券のみ 1,000円(税込)

チケット特典: ZIMA 1本(ボトル)/ PIZZA SLICE 1枚

出演:kZm(YENTOWN)/ あっこゴリラ / JABBA DA FOOTBALL CLUB / Taeyoung Boy

DJ:DJ REN

HOST:SIMON

主催:ZIMA

協力:PIZZA SLICE 2

企画制作:株式会社テレビ朝日ミュージック / Qetic株式会社

お問い合わせ先: zima.qetic@gmail.com

URL:https://zima.jp/feature/blockparty/

Exit mobile version