薔薇という言葉を知らなかったら、
わたしはなにを薔薇と思っただろう。
たとえば、祖父。
二人いる祖父の、母の父のほう。
ずっと写真でしか見たことがなくて、十一歳の夏にはじめて会った。母の父は破顔した。老いた人がこんなに喜びを隠さないでいいんだろうかと驚いた。わたしの知る老人といえば、いつも眉間に皺を寄せていて、一言めに小言、二言めが厭味、三言めにようやく挨拶という感じだったから。それに比べたら母の父は油断だらけ。溶けそうな笑顔で、蝶々をティッシュで包むみたいにわたしの名前を呼んで、手をつないで樹齢四百年のクスノキを囲むみたいに子供たちを輪にして座らせた。配られたグラスをわたしが持て余していると、母の父が一升瓶を差し出してくる。一升瓶の口から流れでる赤い液体はブドウジュースで、スーパーや自動販売機で買うのとはちがって、土のようにざらっと熱く甘かった。成人していない子供たちには手製のブドウジュースを、成人した子供たちにはそれぞれお気に入りの銘柄のタバコを、母の父は用意していた。
母の父の果樹園にみんなで出かけた。くるぶしの留め具が壊れてしまっていることを言い出せず、踏み出すたびに足が抜けるサンダルで出ていこうとするわたしに、母の父が気づいた。母の母が家の共用らしいゴムスリッパを貸してくれて、わたしは順調に歩くことができた。格子状に張り巡らされたブドウ棚の下、水分をたっぷりふくんだ赤紫の球体の連なりに頭をぶつけないように背を丸めて歩く。ブドウの果実は主役のように育てられ、みんなの視線を奪っていく。わたしは瞼を閉じる。鼻の穴から吸う。すると赤紫がふいに消える。茶や緑や灰がふわっと広がって、それから赤や紫がつんと刺す。点描画みたいに組成を変えて、赤や紫は野ざらしにかえっていく。ただいま。玄関をくぐると、サンダルの留め具がぴたりと修理されていた。壊れる前よりも艶めいていた。だれのしわざ。留守番をしていた母の父がテーブルで笑っていた。こんなに寡黙なやさしさが世の中にあることがわたしには信じられなかった。軍隊ではなんでも自分で直したもんだ、と母の父は笑った。なんでも? そう、なんでも。
すぐに思い出すことができなかった。
「障害をもつ人が身近にいたんですか」と訊ねられたとき、わたしは「いいえ」と答えた。答える直前、ひととおり過去をおさらいしたはずなのに。
母の父には片足がなかった。家の中では片足で跳ねて部屋から部屋へと移動していた。外に出るときは義足をつけた。義足と太腿のあいだに入りこんだ空気がときどきブフッと鳴った。それが放屁みたいで子供たちが笑うので、母の父も笑った。車に乗るときは車椅子を描いたピクトグラムのマグネットを車体の前と後ろに貼った。母の父が足を失ったのは戦場じゃなく果樹園だったから、直すことができなかったのかもしれない。
幼い頃、知らない土地に移り住んだわたしの噂を聞きつけ、いち早く玄関のチャイムを鳴らしに来たのは年上の女の子だった。石の投げ方を教えてくれた。爪で手の甲にバツ印をつけて危険な男の人を見分ける方法も。しばらくして彼女は養護学校へ進んだ。それから小学生の頃、隣の家のタカくんとは集団登校の班でいっしょだった。タカくんのおかあさんもいっしょに登校した。タカくんは自分で自分の体を支えていられなくて、おかあさんがタカくんの脇に腕を捻じ入れてもたれ合って歩いた。タカくんも溶けそうに笑う人だった。わたしたちの班はほかの班に追い越されてばかりだったけど、大人のメンバーが混じった登校班はかっこよかった。
障害という言葉を知っても、思い出せないものたち。
わたしは忘れやすい、言葉を。
文・画像提供:五所純子
構成:和田哲郎、本郷 誠
五所純子
文筆家。単著に『薬を食う女たち』(河出書房新社)、共著に『虐殺ソングブックremix』(河出書房新社)、『心が疲れたときに見る映画』(立東舎)など、映画・文芸を中心に多数執筆。瀬戸内国際芸術祭2022に“リサイクルショップ複製遺跡/Duplicate Remains(thrift shop)”で参加。https://setouchi-artfest.jp/artworks-artists/artworks/megijima/378.html
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