ノリのいい音楽を聴くと、人はどうして踊りたくなるのだろうか?
実は、科学はこの問いの答えをまだ出せていない。しかし、すでにいくつかのヒントはつかめているし、科学者が今もっているツールの延長線上で十分に太刀打ちできる問いだと私は思っている。
今回は、南アフリカのハウス・ミュージックをきっかけとして、「音楽」と「動き」と「文化」の関係を考えていきたい。
by ヨリタム
世の中には、「ノりやすい」音楽と、「ノりにくい」音楽が、確実に存在する。その違いを考える上で真っ先に私の頭に浮かぶのが、数年前に質問サイトQuoraで目にした、南アフリカ人の男性によるこんな投稿だ。
(なぜアフリカ系アメリカ人は音楽のウラ拍でノり、ヨーロッパ系アメリカ人はオモテでノるのか、という趣旨の質問に対して)
僕は南アフリカのとてもへんぴな村に住んでいます。…電気がまだ来ていなくて、村の人はソーラーパネルに車のバッテリーをつないで音楽をかけるのに使っているくらいです。…僕たちはよく、パーティーを開きます。…平均でだいたい100人の地元の人(黒人/アフリカ系)と、20人くらいの観光客(ほとんどが白人の南アフリカ人か外国人)が参加します。…こういうパーティーで僕がDJをする時、黒人の参加者が好むビートと、白人の参加者が好むビートには、明確な違いがあります。…ビートの中の、僕には分からない何かが、決定的に違うのです。僕には、“ウラ”と“オモテ”の違い…としか説明しようのない何かです。
たとえば、彼がこのような曲をかけると、地元のお客さんは盛り上がる。
しかし、彼がその次にこんな曲をかけようものなら、あたかも彼が音楽を止めたかのように、すぐに彼らの動きは止まってしまうという。
「BPMは全く同じで、スタイルもほとんど同じであっても、まるでハウス・ミュージックからクラシック音楽に切り替わったかのような反応が返ってくるのです」と男性は投稿している。
確かに、それぞれの曲をよく聴いてみると、1曲目のリズムは2曲目にくらべ、ウラ拍がより強調されているように聞こえる。ただ、私にとっては――そしておそらく欧米のダンスミュージックに接して育った多くの人にとっては――どちらも「ノれる」音楽である。「観光客は、欧米のハウスのほうが若干盛り上がるけど、地元の曲でもよく踊るよ。」観光客は地元の音楽でもノれるのか、という私からの問いかけに、回答者のデイヴ・マーティン氏はこう答えてくれた。「ノり方は地元の人とちょっと違うけどね。」
村の人たちがウラを強調したハウスにはノれて、強調しないハウスにはノれないこと、そしていっぽうで観光客や私たちが両方のハウスにノれることは、文化的背景が音楽の「ノりやすさ」に影響していることを示している。
今日の欧米のダンスミュージックは、アフリカ系の音楽の影響を受けているためか、1曲目のようにウラを強調したリズムの曲も珍しくない。だから,私たちは両方のリズムにノることができる。しかし、村の人たちはウラを強調する地元の音楽で育ち、オモテを強調する外国の音楽にはあまり接してこなかった。そのため、後者を踊りにくいと感じる、と考えられるのだ。「この村では、欧米のリズムを耳にする機会はほとんどない。ラジオ局さえも、滅多に欧米の曲をかけないんだ。」と、マーティン氏は話す。
マーティン氏によれば、様々な音楽に接する機会の多い都市部のクラブではこのような明確な反応の違いは見られないという。都市部には、この村の人と同じ民族であるコサ人の住民も多い(注1)。このことも、村の人がもつ何かしらの遺伝的な形質ではなく、どのような音楽で踊ってきたか、という文化的経験が、彼らの音楽への反応を形成していることを物語っている。
もちろん、この話は一つの体験談にすぎない。もしかしたら、南アフリカ全体を見れば、辺ぴな村の人だって都市部の人のように欧米のハウスにノれるのかもしれない。あるいは、村の人が反応していたのはリズム以外の違いだったかもしれないし、そもそも単に知っている曲で盛り上がっていただけかもしれない(1曲目は南アフリカで大ヒットしたそうだ)。この辺りは、実際にこのような村に行ってデータを増やしたり、対照実験(注2)をしてみなければ確かめられないことだ。
しかし、他の地域で行われた実験で、人は自分の慣れ親しんだリズムを好み、より正確に反応することが示唆されている。たとえば、ルワンダの若者は西洋のリズムより東アフリカのリズムに、北アメリカの若者は東アフリカのリズムより西洋のリズムに、より正確にノる(ビートに合わせて指を動かす)ことができる。また、西洋のリズムにしか接していないアメリカの赤ちゃんは西洋のリズムがバルカン地方のリズムよりも好きなのに対し、両方に接して育つトルコの赤ちゃんはどちらも同じくらい好きなのだ。
注1:もっとも「同じ民族」といっても、人口統計における「コサ人」という分け方自体が話す言語に基づいているので、必ずしも村の人と都市部の人の遺伝的な形質が近いとはかぎらない。
注2:この場合ではたとえば、地元の人がよく知っているがウラではなくオモテが強調されている曲をかけて反応を調べるなど、ありえる他の可能性を「つぶす」ための実験が対照実験である。
それでは、人は慣れ親しんだリズムがかかれば踊りたくなり、知らないリズムでは踊りたくならないのだろうか?そもそも、人はなぜ音楽に合わせて踊りたいという欲求をもっているのだろうか?
一般的に、単純ではっきりとしたビートのほうが、リズムが複雑すぎたりはっきりと分からない時よりもノりやすいこと、そしてビートに動きを合わせたほうが合わせない時にくらべて動きやすくなることは、文化に依存しないと言えそうだ。
実際、打楽器の入っていないバラードの独唱や、複雑なリズムのフリー・ジャズよりも、単純明快なビートをもったダンスミュージックのほうが圧倒的に踊りやすいし、古来、世界各地の戦場では、兵を文字通り鼓舞するために行進曲などのパーカッシヴな音楽が演奏されてきた。
東京芸術大学のパット・サベジ氏らは、伝統音楽を中心に世界中から集められた304個の録音サンプルと、それらの音楽が演奏された場面についての情報を分析し、「単純なリズム」「規則的なビート」「離散的なピッチ(注3)」「集団でのパフォーマンス」などの特徴が多くの文化の音楽に共通することを見出した。
興味深いことに、「打楽器を使い」、「規則的で単純なリズム」に「集団で合わせて」「踊る」という4つの特徴群は、互いに依存しながら進化してきたことが示された(注4)。 「世界中いたるところで、明確なビートが踊りや集団でのパフォーマンスとセットになって現れるということは、これらの特徴の機能的な結びつきを示唆しています。」と、サベジ氏は言う。平たく言えば、分かりやすいビートは、文化に関係なく踊りに適している可能性が高いのだ。そしてその踊りは、共通の動きを通じて人間集団を結び付ける機能を担ってきたのではないか、とサベジ氏らは考察する。
ヒトは、高度な社会生活を営む動物である。その共同体を維持するために音楽と踊りが使われてきたというアイデアには、直感的に納得がいく。同じ音楽に合わせて見知らぬ人や仲間たちと一緒に身体を動かすことで生まれる一体感は、多くの人が経験したことがあるはずだ。また、社会的に音楽をたしなむ(たとえばライブに行ったり集団で踊ったりする)人のほうが、音楽と全く縁のない人だけでなく、ひとりで音楽を聴いたり演奏したりする人とくらべても社会生活や人生への満足度が高い、という最近の調査結果も、音楽や踊りと社会的つながりとの密接な関係をうかがわせる(注5)。そしてもちろん、軍楽や盆踊りなど、身体の動きをともなう音楽が人間集団を結びつけてきた歴史的な例は枚挙にいとまがない。
しかし、ヒトを見ているだけでは、このアイデアをこれ以上掘り下げていくことは難しい。
第一に、音楽と踊りがヒトの社会生活の役に立っているからといって、その関係が必然的とはかぎらない。音楽はヒトという特殊な例において「たまたま」社会的な役割を担うようになっただけかもしれない。もし、集団を結びつけることが音楽や踊りの普遍的な機能なら、ヒト以外の社会的な動物(たとえばサルなど)にも、音楽に合わせて踊る、という行動の萌芽のようなものが見られても不思議ではない。逆に、あまり社会的でない動物(たとえばネコなど)も音楽に合わせて動くのであれば、音楽と踊りを発達させるために社会性はそんなに重要ではない、ということになる。つまり、「音楽に合わせて動く」という行動がヒトの他にどのような動物に見られるのかを調べることで、音楽と踊りの機能をよりよく理解できるはずなのだ。
第二に、仮に音楽が踊りを通じて人々を結びつけるために発達したのだとしても、そもそもなぜ私たちはノリのいい音楽を聴くと踊りたくなるのか、という謎は完全には解けない。確かに、分かりやすいビートをもつ音楽は、たくさんの人が互いの動きのタイミングを合わせるのに適している。だから、ヒトは社会的つながりを強めるためにそのような音楽を聴くと踊りたくなるように進化してきた、という可能性は高い。だが、音楽と踊りの関係は本当にそれだけなのだろうか?社会生活以前の、もっと基本的な脳のしくみによって、ビートが私たちを動かしているという可能性もあるのではないか?ヒトの脳を傷つけずに調べる方法はまだまだ限られているため、このような問いに答えるには、ヒト以外の動物の脳を使った研究が今のところ不可欠だ。
後編では、バックストリート・ボーイズに合わせて「踊る」動物たちと、ネズミのために実験室の中でレイヴ・パーティーを(ドラッグを含め!)完全再現した研究を通して、「音楽」と「動き」の関係の核心に迫っていきたい。
ティーザーとして、とりあえずこの動画を貼っておく。どうぞお楽しみに。
注3:ドレミの音を例に考えると、ドとド♯の間にさらに無限に多くのいろいろな音の高さがありえる、というのが連続的なピッチで、たとえばドとド♯の間には何もない、というのが離散的なピッチである。離散的なピッチには、皆で一緒に歌ったり楽器を演奏したりする時に音程を合わせやすい、という利点がある。したがってこの特徴もまた、音楽を集団で演奏しやすくするために発達したのだろう、とサベジ氏らは考察している。
注4:正確には、そのように進化してきたという考古学的な根拠が示されたわけではなく、音楽の特徴についてのデータを統計的に分析した結果、一緒に進化してきたと考えたほうが、偶然そうなったと考えるよりもデータを上手く説明できることが示された、ということである。
注5:ただし、そもそもライブに行ける人は行けない人よりもお金や余暇があるのかもしれないし、集団での踊りに参加できる人はできない人よりも初めから社交的だったり、友達が多かったりするのかもしれない。この調査はこれらの可能性をつぶしていないので、社会的な音楽活動が満足度アップを引き起こしたことを示すには、さらなる研究が必要だ。